【私の会いたい100人:第28回】
- nakao3126
- 4 日前
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「私の会いたい100人」
ただただ私の会いたい人に会いに行って話をするという企画でございます。
絵になるのか、内容のある話になるのか、そんなことはお構いなし
会いたい人に会って、出会った当時、一緒に過ごした当時の話やその後の話、
はたまた今後の話について色々と話を伺っていきたいと思います。
そして今の自分がどういう方々からの影響を受けて形成されているのか、
ということを知る一つのきっかけになればと思っています。
それでは、第28回
お楽しみに

中尾:「私の会いたい100人」第28回のゲスト
マツさんこと 松浦 孝紀 さんです。
マツさんはベトナム時代のサッカー仲間で、関西人ならでは(?)のコミュニケーション力とフットワークの軽さで広い交友関係を築き、その地その地を楽しく過ごしていく、そんな逞しさもありますが、ベトナムを離れてからアジアを中心にキャリアを重ね、帰国後は家族と共に関西に拠点を置き生活をしています、
本日のお客様 松浦 孝紀 さんです。
<幼少期>
中尾:先ず、「孝紀」という名前の由来は?
松浦:これは前もって聞かれるやろうと分かっててほんと申し訳ないけど、全然ネタにならんくて、親がちゃんと姓名判断してくれる所にいくつか出してもらった中で、一番まともそうな名前を選んだという。ただそれだけ。
個人的には別にめっちゃ好きでも嫌いでもないけど、うちの姉には「しょうもない名前やなぁ。」と言われてた。
中尾:人の名前をそんなこと言います?(苦笑)
出身は?
松浦:神戸。山の方の神戸の中でかなりの田舎。社会人になるまでずっとそこ。
周り全部山だから、小さい頃はよく近所の子と山遊びに行って虫捕ったり、魚釣ったりとかそういうことしてましたね。
あとは小さい頃、幼稚園とか小学校1年の頃とか、父がゴルフのクラブを持ってたから、それを勝手に持って裏山に行って、みんなでバチンバチン打ったりよくやってた(笑)
近所に近い年齢の子どもたちも多くて、めっちゃ仲良くて、8家族ぐらいでキャンプしたり、毎年お泊まり会とかクリスマスパーティーとかやってて、今でも幼馴染というか、付き合いがあるし、お母さんお父さん同士もめっちゃ仲良し。
(近所付き合いは)そんなもんやと思ってたから、自分が1人暮らししてみてとか、家庭持ったりしてみても、最近は近所づきあいってそんなに無いから本当にいい環境で育ったなと思って。
隣がめっちゃいいおばちゃんで、実家に戻ったときに会ったら「これ持って帰って」って野菜とかいっぱいくれたり。
そんな感じだから、幼稚園や小学校も、帰ってきたらずっと近所のお友達と遊んでて、泥遊びとか野球とかサッカーしたりで遅く帰ってたまに締め出しくらってた。
中尾:小学生の頃など夢中になっていたことは?
松浦:まず小学3年の時にビックリマンチョコ。その前にキン消しの方が流行ったな、小2の時か。あとは昔のコインを集めるのが好きで、家にあったコインとか親戚のおじちゃんが海外に行った時のコインとかそういうの集めるの好きで。あとは、牛乳の瓶の蓋をめっちゃ集めてた。
中尾:小学生時代に何か習い事などはしていました?
松浦:(母親が)めっちゃ教育ママで。幼稚園から小学1年までエレクトーンで、その後小6までピアノ。小2から小4まで習字。小3はそろばん、小4か小5から英会話やって、小6でスイミング。あとサッカーが小3から。こういう感じ。だからほぼ毎日、習い事をやってた。
ピアノは先生が結構怖かったから本当に嫌で。おかんは自分が(ピアノを)やりたかったけどできなかったから、子供にやらせてたみたいで、小6でやっと辞められた。今でも実家にピアノあるけど、今は全く弾けない。よっぽど嫌いだったんだと思う。
でも音楽をやっていたのは良かったと思う。音楽のテストも点数よかったし。
習字も字がきれいになったから良かった。ただ、硬筆は得意だったけど毛筆は苦手で。
高校の時にめっちゃ字が綺麗な子がいて、その子にノートを借りて、その字をずっと練習してたら綺麗になった。(最初にその子の字を見た時)もう衝撃的やった。「何、この字は?!」って。本当に感動したよ。
だから、年賀状とか書くのが好きでみんながプリントしてる時も、ひたすら手書きでみんなに出して。
英会話は親にやれやれって言われて。塾もそうだけど、友達が結構おったから。
サッカーもそう。小学校、中学校の時はサッカー嫌いやったね。嫌いだったんだけど、うちの地域は野球よりサッカーがメジャーで、仲のいい子はみんなサッカーやってたから。
中尾:マツさんの世代で野球よりメジャーな地域があるんですか?
松浦:サッカーはそれなりに強かったし、1学年40人ぐらいいて3チームあった。
仲いい友達はみんなAチームで、俺1人Cチーム。Aチームは遠征に行くけど、(友達の中で)俺1人残されるみたいなのがずっと続いた。
朝練も近所の公園でやってて、近所だし仲いいからって1人だけAチームのトップチームに混ぜてもらうみたいな。

〈学生時代〉
中尾:中学では部活は?
松浦:サッカー部。結構強いチームで3学年で120人ぐらいいたかな。1学年8、9クラスくらいの公立学校。
中尾:中学時代の勉強はどんな感じでしたか?
松浦:数学とか基本的に理系が得意で、社会と国語は苦手だった。英語はずっと英会話に行っていたから、英語と算数・数学が一番良かったよ。中学までね。
元々勉強があんまりできなくて、自分でもコンプレックスがあって頭が悪いと思ってた。
中尾:中学生の時の将来の夢は?
松浦:多分小6の時とかに書いてたんだと思うけど、全く覚えてなくて、たぶん普通のサラリーマンじゃないかな?
(仕事では無いけど)でも1個なんとなく覚えているのは、中学ぐらいの時に(実際に行くことになった)「甲南(大学)に行きたい」と、うっすら思っていたこと。
中尾:高校進学はどういうふうに決めていったんですか?
松浦:関西では基本みんな公立に行く。その公立高校を目安としてちょっと上か、ちょっと下の私立を受けるイメージ。(最終的には)私立の試験が先にあるから、その結果を見て公立を決める。
私立はちょっとチャレンジな学校を受けてテストの一発勝負で受かった。
先生には「お前は内申点が悪いから公立は受からんよ」と言われたので、私立と同
じかちょっと下のランクにしようと思っていたけど、私立に合格したので、じゃあ公立はこっちって(高い方を)受けたら、落ちた。
受かるつもりやったけど、10人ぐらいしか落ちないのにそのうちの1人になって。
中尾:なぜそんなに内申点が悪かったんですか?
松浦:いや、ほんま結構真面目にやってたつもりなんやけど、授業中に結構喋ってたからとか。分からん、結構いい子やったはずなんやけどね(笑)
ちなみに、その(落ちた)高校の卒業アルバムになぜか俺写ってて。合格発表の写真があって、そこに写ってた。落ちてんのに(笑)
中尾:高校生活の印象は?
松浦:まず良かったのは、男子校だったということ。アホばっかりみたいな。まあ、サッカーの世界も一緒やん?特に海外のサッカーチームのあんな感じのノリ。本当アホばっかり、おもろい奴ばっかりやったんでね。
そこそこ勉強出来る子も居るし、不良があんまりいない。
中尾:高校の部活はどうしたんですか?
松浦:中学でやったサッカーとは絶対違うスポーツにしようと思ってて、ゴルフ、ボクシング、柔道、アーチェリーの4つかな、候補があって。
サッカーは団体で足を使うスポーツだったから、真逆で個人で手を使うスポーツがいいなと。ただ、ゴルフとアーチェリーは金が掛かるから親に相談したら、本当にやりたいなら出してあげるよって言うわけ。で、ゴルフ部は弱かったけどアーチェリーは結構強くて全国に行くくらいだったのと、マイナースポーツやから、ちょっと頑張ればそこそこいけるだろうと、それでアーチェリー部に入った。
中尾:アーチェリー部自体少ないと思うのですが、早くからやっている人たちもいるんですか?
松浦:中学からやってる子はいる。ただ、アーチェリーはいつ始めるとかあまり関係なく
て、大体伸びる奴は1~2年で上手くなる。反対に1~2年でダメだったら大体もうダメ。大概、才能があるかないかがその期間で出て、そこにプラス努力という感じ。
中尾:どれくらいで大会に出られるようになるんですか?
松浦:最初は筋トレから始まって半年くらいで試合には出られたのかな?
中尾:アーチェリーがお金かかるというのはどの程度のことなんですか?
松浦:とりあえず、弓が要ります。弓1式フルセットで10何万とかする。弓は5年とか、めっちゃ打ってる人で2、3年くらいはもつ。
矢が結構かかって、アルミとカーボンとあって初めはアルミで、当時で1本2000円。 それを最低12本揃える必要があり、大体15本から18本買う。これでだいたい4万円。
それで上手くなったらカーボンにする。これは1本4000円前後するから、揃えると8万とか。で、変なところに打ってポキッて折れたりする、買った瞬間1本4000円がパーになることもあるしね。使い続けられれば1年くらいは持つ。
中のシャフトっていうのがダメになってくるから、(矢の)寿命は大体1年ぐらい。
中尾:確かにお金はかかりますね。
成績はどうでした?
松浦:3人1チームで試合をする団体戦があるんだけど、本当にラッキーだったのは同級生が全部で5人いて、そのうちの2人が超全国クラスだったから3番手の自分は2人に引っ張ってもらって。キャプテンもやって。
2人ともタイミングが違うけど、学生チャンピオンだったり日本チャンピオンになったり、兵庫県の記録を塗り替えたりとか。1人は後からさらに上手くなって日本代表になってアジア大会でメダルとってたんじゃないかな。
中尾:キャプテンはどうやって決まったんですか?
松浦:上の代が指名するんだけど、(キャプテンを)俺にした理由は、上手かった子にはキャプテンをやらせるよりも競技に集中させたいから、というのがあったらしい。
中尾:専用の射撃場があるんですか?
松浦:あったけど、その時は結構狭くて、30mしかない。昔は大会の基本が50mと30mだったから、30mは強かったんだけど、50mはいまいちだった。
県内で大体うちともう1校で競っていたんだけど、向こうは50mと30m両方練習場があったから、50mは向こうが上手いんだけど、いつも30mで(自分たちが)逆転するっていう(試合は50mが先、そのあとに30m)。当時はね。
大会直前とかは照準器を合わせないといけないから、練習場が校門のすぐ横にあったんだけど、50mになると校門まで行かないといけなくて、(通行を)止めて練習するっていう。
2年生の時に3年生2人と2年生の上手い子の3人で全国大会に行った時にマネージャーとして連れていってもらったら、全国3位で銅メダルになって、それを見て「うわぁ、すげぇ?!」ってなって、そこから結構燃えたね。「俺もメダル取りたい」って。
結果的に3年の時にインターハイに行ったけど、決勝トーナメントの1回戦か2回戦で優勝候補に当たって、負けちゃった。
結局、キーマンは俺やった。俺がちゃんと出来ていれば勝ててた。俺がしくったから勝てなかった。
中尾:精神的なスポーツの印象がありますが、実際影響しますか?
松浦:めっちゃ影響するよ。震えるもん。あの経験があるからゴルフは結構得意な方。
この一球一球、一打一打、一射一射にかける集中力が求められる。
大人になってからは命取られる訳でも無いし、そんな緊張しないけど、高校、大学の時、特に高校の時はだいぶ緊張してたかな。(アーチェリーに)懸けてたからね。
中尾:大学進学はどう決まっていったんですか?
松浦:スポーツ推薦で大学に行ったんだけど、高校から大学に推薦状を出す。
自分の高校から1つ上とか何個か上の先輩とかも(スポーツ)推薦で行っていて「お前やったら受かるかも」って言われて、他に誰が受けてくるか分からないから取りあえず(推薦状を)出して、でもラッキーやったというか、本当に申し訳ないなと思ってるのは、2番手のやつが(おそらく自分に)気を使って推薦出さなかったんだと思う。
2番手のやつが(自分と同じ大学に推薦を)出してたら確実にそっちが選ばれていたはずだけど、1番手のやつと同じ大学で推薦出して、1番手のやつが推薦で決まって、結局2番手のやつは普通に受験で自分と同じ大学に入った。
ただ後輩は、そいつがスポーツ推薦で入ったってみんな思ってたわ。(苦笑)
中尾:そうすると、大学は部活漬けですか?
松浦:ひたすら部活と、でも授業は真面目に出てたな。(高校時代)あまりにも勉強できなかったから、ちょっと悔しくて。大学はスタートライン一緒やん?(高校までと)勉強がガラッと変わるから授業はほぼ全出席で、ちゃんと課題も全部出して、ノートとかもとって。だから、俺のノートがコピーとかで回ってた。書くの好きだったからね。
ただ、英語だけは授業全部出て、宿題全部出して、テスト全部受けて、単位落とされた。「マジで?!そんなやつ聞いたことない?!」って友達に言われて。本当に全部やったのに、衝撃…
英語はそれくらいできなかった。だから、それから4、5年経って会社辞めて留学するけど、当時の友達に(留学することを)言ったら、「お前、死ぬで」って言われた(笑)

〈社会人(新卒・留学時代)〉
中尾:大学卒業後の進路はどのように決めましたか?
松浦:人前で話すのが苦手だったから営業は無理やなと思って、昔からパソコン好きだったから、コンピュータ関係やなと思って、色々受けて受かったうちの1つに就職して、そこでプログラマー、SEをやって、最初は金融系のシステムとかをやっていた。
それで2年か3年経った時に新しい部署が立ち上がって、そこに引っ張ってもらって、それが結構楽しかった。出張ベースで半年か1年弱くらい東京にも住んでいて。
その時に海外製品のシステムの担当になって、そうするとマニュアルが英語で、ひたすら頑張ったけど、ちょっとこれ無理やなと思って。本当に英語嫌やったから。
でも、仕事しながら英語の勉強するのも無理やなと思って、どうしようかなと思ってる時に、ちょうど留学から帰ってきた同級生から結構(留学生活が)充実してた話を聞いて。
あと、高校の時にずっと部活のノートを書いてて、今日何したとか。懐かしいって思って読み返してたら、最後の方になんか「留学したい」みたいなことを書いてあった。
(高校時代に書いていたことを)全然覚えてないんだけど、当時書いてるっていうことは、やっぱり当時からちょっと(海外への)意識があったのかなと思って。
英語のマニュアルで英語ができない自分を痛感し、このまま(英語から)逃げても10年、20年経ってずっと引きずることになるし、今後、絶対に英語からは逃げられないから、どっかで一度向き合わないとあかんやろなと考えていて。
そんな中、辞める前の年の12月くらいから東京出張になり、当時の東京の上司からも(6月の辞令前に)「お前、次東京になるぞ」と言われていたので、大阪の家を5月末で引き払ってたんだけど、6月の辞令を見たら(自分の)名前が無い。
「あれ?」と思って上司に伝えたら、「あ、ごめん、人事に言うの忘れてた」と… 「次の機会まで待っててくれ、それまで長期出張で」と言われたけど、家をもう引き払った後だったので、「ちょうどいいタイミングかな」と思って、いろいろ考えた末に「辞めて留学します」と言って。
仕事自体は何となくずっと順調で楽しかったから、一度ちょっと苦しみを味わうのもいいかなという思いもあり、1年半、留学して、色々あったけどやっぱり楽しかったね。
ひたすら楽しかった。あんな経験をもう一回したい。シェアハウス生活だけど、シェアメイトも良かったし、4つほど家を移ったけど、全部良かった。
最初はホームステイで、2つ目は本当に大きな10部屋ぐらいある一軒家に12人くらい住んでいて、結構パーティーをしたり、いろんな国の人と交流したりでめちゃくちゃ楽しかった。
貯金をはたいて留学していたから、(貯金がなくなってきて)この先の仕事を探す為にロスのキャリアフォーラムに行ったりもして、帰国して就職活動したら内定もらった6社のうちの1社だけが「今すぐ海外に行ってくれ」と。そこが「ベトナムに現地法人立てたけど、日本人の管理者がいないから、すぐ行ってくれ」みたいな話で。
カナダの学校のクラスメイトでベトナム人の女の子がいたんやけど、めっちゃいい子で、すごい人間もできていて絶対怒らないし、チームワークでめっちゃまとめるし「すげーな?!」と思って、それでベトナムはどんな国なのか結構興味があったし。
でもその子が超優秀だっただけで、行ったらそんな子は全然いなかった(笑)

〈社会人(海外勤務時代)〉
中尾:ベトナムでは英語も使いながらの仕事でした?
松浦:英語を磨きたかったけど、英語ができるベトナム人がいなかったし、日本語の通訳がいて日本語でずっとやってるから、それはちょっとなって思って。あと、ベトナム時代に大学院に行ってたんだけど、1年半ぐらいかな、マスターが終わるタイミングで転職して。
中尾:ベトナムにいた期間は?
松浦:2005年の5月、6月から2007年の6月ぐらい。
中尾:2年だけですか?!顔がめちゃくちゃ広いイメージだからもっと長かったかと。
松浦:ベトナムの時が一番顔広かった。(サッカーの他に)山の会、テニス、音楽もやってたから。途中からバンドもやって、ソフトボールも行ってるね。
テニスが一番最初だった。テニスに誘われて行って、そこで一緒だった人が「最後のサッカーに行くから一緒にどうですか」って言われて初めてサッカーに行って。
中尾:小中でサッカー嫌いだったじゃないですか?
松浦:社会人1年目の時に大学の仲良かった友達が神戸の1部か2部でやっていて、そこに入れてもらって、めっちゃ下手くそやったんやけど3年くらい続けてて、最後に後輩に言われて嬉しかったのは、「松浦さんが1番伸びましたね」って。
めっちゃ下手で、もうまともに蹴れんレベルやったけど、やっと普通にサッカーできるレベルになったからベトナムでも何とかなっていたっていう。
中尾:そもそも下手なイメージが無いから何の違和感もなかったです。
ベトナムの後にシンガポールに行くことになったと思いますが、行く前に話してた中で覚えているのが、シンガポールの会社の面接で「何日徹夜できるんだ」って聞かれて「2日くらいは」みたいなやり取りがあったと言っていたと思うのですが、実際どうだったのかなと。
松浦:よう覚えてたな?!
確かに面接で聞かれた。(徹夜したのは)実際は1回ぐらいやけど、それは自分がミスってリカバリーでやってただけやから。どっちかいうと、商社だったからアテンド。
中尾:そうなんですか?役割が全然違うのかなと思ってました。
松浦:元々、営業が嫌いでITに行ったけど、1番初めに入った会社で、途中から営業的なこともやってて、イベントやったりとか、セミナーで喋ったりとかしてたら、めっちゃ楽しかった。
思ってたのと違って「あ、めっちゃ楽しい!」と思って「営業やりたい」、「喋りたい」って。そういうのがあって、だからシンガポールの会社では営業系。特に(シンガポールの次の赴任先の)インドネシアの時は完全に営業やってた。インドネシアは支社の立ち上げプラス営業。あれは一番楽しかったなあ。あの時がほんと人生のピーク。
中尾:各地でサッカーを続けていましたか?
松浦:各地で続けていてJ-ASIA(アジア各都市の日本人サッカーチームが集まる大会)も5(都市の)チームで出たけど、他にいないでしょ?
今は3チームくらいで出たことがある人はめっちゃいると思うけど、当時は2チームとかでも稀やったよね。10年前、15年前はいなかった。
中尾:世界中どこにいってもコミュニティがあるというのがサッカーの強さですよね。
松浦:すっごいありがたい。だからそういう意味で、サッカーやっていて良かったと思っている。
中尾:5チームはベトナム、シンガポール、インドネシアと?
松浦:タイと中国(華北)。天津からまたタイに戻ってという感じ。
〈社会人(帰国後)〉
中尾:天津からタイに戻って、タイから日本に?
松浦:会社を辞めて日本に戻ろうと思って色々探していて(求人が多いのは)基本東京なんだけど、たまたま沖縄で求人があって。
家族と日本に戻ろうという話は先にあって、子供をどうするか、嫁も別に海外好きじゃないし、とはいえ(嫁が)田舎出身だから田舎は嫌な人なんだけど沖縄の田舎は良いねとなり。
職場に子供を預けるところもあって、そこの子供が半分日本人、半分外国人で、先生も半々くらいだから午前中日本語やって、午後英語で、そこに子供を入れたいと。
1人目の子はずっと通っていたけど、一切英語できない。。。
沖縄はほんまに良かった。それなりに住みやすいし。6年半、7年弱ぐらいいた。
海なんてすぐ、10分とかで綺麗な海があるから毎週行ってたもんね。良かったよ。
でも最終的に、仕事もちょっとしんどいというのがあったのと、2019年に姉が亡くなったので。2人姉弟だから、姉が生きていたときは親のことを任せていたけど、長男だし、先ずそれが1つのきっかけで、仕事もちょっとと思う時期だったので転職を考えるようになり、最終的に嫁に相談して(神戸に)帰ってきました。
帰ってきてめっちゃ良かったと思うわ。
まず(沖縄から)帰ってくる途中で嫁のお父さんが亡くなり、帰ってきてからは、うちの親がずっと面倒見てる近所に住んでるおばあちゃんみたいな存在の大叔母がいるんだけど、その大叔母も亡くなって、俺はその喪主をして。
そのあとに、おとんが去年亡くなった。
だからタイミング的に戻ってきたタイミングはちょうど良かったなと思って。近くにいられたし、全部手続きとかもできたし。
中尾:神戸に戻ってから色々あったのですね。
お仕事はどうですか?
松浦:神戸に戻ってから医療関係の会社で働いていたんだけど、そこ受かる時に一緒に受けていた会社があって、最終まで行ったけどその時はダメで、でも心の中では行きたいなと思ってて、そしたら去年、ポジション提示があって面接を受けて入ることになって。
どちらかというとバックエンドの仕事よりインドネシアの時のようにフロントエンドの方もやりたい。
沖縄の時からもそうなんだけど、ずっとバックエンドだったの。人事システムとか、会計システムとか、ネットワークとか、インフラとか、そういうバックエンド系をやっていたかな。

〈家族について〉
中尾:ここからはご家族のことを聞かせていただきます。
お子さんは今いくつですか?
松浦:11歳と5歳。
中尾:子どもとの接し方や気をつけているとか、考え方などどんなものがありますか?
松浦:まず、海外に目に向けてほしいというのは大前提であって、何でかと言うと、僕が周りにそういうの(環境・情報)が無かったから。でも、ちょっと機会を与えられていたら、もっと海外に興味を持てたんじゃないかなと思って、そういうの(機会)を、持たしてあげたいなと思って。
こっちがやれじゃなくて、色んなものを与えた中で、興味のあることを伸ばしていきたいと思ってる。
あとは、健康であればというのと、人様に迷惑をかけないというところで、でも言っても基本、育ててるのは嫁さんなので、自分の思いは、まあ2割3割くらいの感覚でね。
嫁の中でこうっていうのがあったらそこに対して口出しはほぼ出来ない。
嫁とはベトナム時代の友人の結婚式で知り合って、結果的にタイにいる時に結婚を決めて、会社の社長に「日本に戻りたいです」って相談したら、「じゃあ、日本にポジション空いているか聞いてあげるわ」って。そしたら日本でちょうど人を探しているポジションがあって、一回出張行ったら、お客さんにOKもらえたので、タイから日本に駐在することになって。タイ現地採用の日本人の日本駐在なんて聞いたことないな。多分、もうないと思う。
そのまま日本で過ごして、結婚して、それでタイに戻る予定が、急遽中国で人が必要となり、行ってくれって言われたので、嫁に相談して。
結婚して半年しか経ってないし、丁度お腹に子供ができたと分かっていたけど、本当に人もいないしってことで嫁に相談して中国へ行ったけど、一番辛かったな。仕事的には本当に一番辛かった。
ポジションが中途半端で、お客さんの会社の中国人現地社員の教育をする立場なんだけど、(教育を受ける)向こうの中国人社員から言わせれば(自分は)ベンダーな訳で、めっちゃ足元見られる訳。「お前ベンダーやろ。何でお前の言うこと聞かなあかんねん」みたいな感じ。
でも(依頼元である)お客さんの上の立場の日本人たちからすると、「いや、あなたはマネージャーの代わりというポジションでお願いしているので、ちゃんと教育してください」と。
さらに(自分と)同じ会社の人たちは周りにいなくて全く何のサポートも無く、ポツんといる状態で、本当にストレスで、でも周りに愚痴を言える人もいなくてあれは本当に辛かったよ、マジで。
「マックス1年でお願いします」と行く前に言ってたけど、さすがに1年じゃ終わらなくて、半年だけ延ばされて、「もうそれ以上は僕も無理です」って、最後は本当に日めくりカレンダーみたいにあと何日、あと何日ってずっと数えてた。もう本当に辛かったよ。
サッカーが唯一の娯楽だった。サッカーチームの人たちは皆優しかった。
〈最後に〉
中尾:間もなく(インタビュー日が50歳誕生日の1週間前でした)50代を迎える年代になりましたが、仕事、プライベートそれぞれで今後やりたいこと・チャレンジしたいことを教えてください。
松浦:先ず仕事は、ここ10年結構しんどい仕事というか自分が本来やりたい仕事ができてないというか、得意というかある程度できるから、流れでやってきた感覚もあるけど、どこかのタイミングでもうワンチャンやりたいことができるチャンスがあると思っているので、そこで、最後までダッシュしてやろうと。
企画を考えて、企画書をぶつけてみて、それ自体が成功はしないかもしれないけど、1個こういうのをしたという実績を作って、そこをきっかけに自分の本当にやりたいことを熱意を持ってやる。
そしたら働く時間がどうとか、通勤時間がどうとか苦にならない。
ジャカルタの時が正にそうやった。働く時間は全然気にならなかった。楽しくてしゃあなくて。それをもう1回味わいたい。
プライベートは、まず絶対なのは、【ゴールドのパンツ】を履きたい。
80までサッカーやっているとゴールドのパンツを履けるって知ってる?
オレ、それを知ってて、80歳までサッカーしてゴールドのパンツを履きたい。これがプライベートの目標。それまで頑張りたい。
中尾:あと30年?!あんなにサッカー嫌いだったのに?
松浦:そう!不思議やなあと思って。嫌いだったことでもこういう風に繋がってくるのかって。
中尾:楽しみですね!
今日は本当にありがとうございました。
中尾が出会ってきた方と過ごした時間の中で、どのような影響を受け、自身が形成されているかを知るきっかけにしたいと思い、始めた企画ですが、今後も定期的に会いたい人に会いに行き、話を聞いてみたいと思います。
それでは第29回お楽しみに。
(了)





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