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【私の会いたい100人:第26回】


「私の会いたい100人」


ただただ私の会いたい人に会いに行って話をするという企画でございます。


絵になるのか、内容のある話になるのか、そんなことはお構いなし


会いたい人に会って、出会った当時、一緒に過ごした当時の話やその後の話、

はたまた今後の話について色々と話を伺っていきたいと思います。


そして今の自分がどういう方々からの影響を受けて形成されているのか、

ということを知る一つのきっかけになればと思っています。


それでは、第26回


お楽しみに


 「私の会いたい100人」第26回のゲスト


 小池さんこと 小池 慶 さんです。


小池さんは高校のサッカー部の先輩で、偶然進学先も一緒となり同じ大学に通うことになるのですが、そのリーダーシップと人柄は陰ながらいつも参考にさせていただいている、

そんな頼りがいのある


本日のお客様 小池 慶 さんです。


<オープニング>


中尾:インタビューの冒頭に皆さんに聞いているのですが、名前の由来は?


小池:2つあって、1つは親父さんが慶應大学に受験失敗したから、子供に慶應を託したっていうのが1つ(笑)

   もう1つは「慶び」という字に人生の楽しさとか喜びを感じてもらいたいという思いを込めたらしい。


中尾:親御さんの思いが字に込められているのですね。




<幼少期+中学時代>



中尾:出身はどちらですか?


小池:横浜で生まれ育って、転勤族だったから小2から小4が所沢、小5から中1が旭川、中2、中3が岐阜で高校からまた横浜。


中尾:お兄さんと遊んでいたとか子どもの頃の当時の思い出はありますか?


小池:あまり無いけど、家の近所に結構男の子が多くて、10人ぐらいいたと思うけど、自分が1番年下ぐらいで、自分が幼稚園ぐらいの時に小学校高学年ぐらいのお兄ちゃんたちと一緒に遊んでいて、ちょっと女の子っぽいというか、みんな野球とかガツガツやってたけど、自分は年下ということもあったのか、そんなにガツガツしてなかったような記憶がある。


中尾:みんなに付いていってる感じですかね?

   小学2年になる時に初めて引越しをする訳ですが、横浜から所沢に移ってどんな変化がありましたか?


小池:横浜にいた時は周りのお兄ちゃんたちがみんな野球をやっていたから自分もやるつもりでいたけど、所沢の家の横の広場がこれから通う予定の小学校のサッカー少年団の練習場で、家の前で1人でボールを蹴ってたら、コーチに「君も良かったらやってみる?」と声を掛けられて参加するようになったのがサッカーを始めたきっかけ。


中尾:環境の変化で大きな出来事があったのですね。

   放課後はどんなことをしていましたか?


小池:何してたんだろう?ラジコンとかちょっとやったかな?でも、あまり物を作るのが得意じゃないらしいので、そこまでハマらなかった。

   ほぼサッカーやってたし、体を動かす方が多かったかな。


中尾:他に習い事はありましたか?


小池:一応、進研ゼミをやっていたかな。

   あとは、塾にも行ってた。お兄ちゃんと一緒に行っていたんだけど、親がいけない時に2人でタクシーに乗せられて塾に行った記憶がある。

   塾はお兄ちゃんが通っていたから一緒に行くようになって、個人塾だけど面白くて当時からパソコンを使ってて。


中尾:すごい先取りですね?!

   そこからまた5年になるタイミングで旭川に引っ越すことになりますが。


小池:転校が2回目だったから、「またか」というのはあったかもしれない。そこもまたサッカーがあったから、直ぐに馴染めたかな。

   (キャプテン翼の)岬くん扱いだから。北海道の旭川に関東の埼玉から来たから最初は岬くんとか言われていた記憶がある。


中尾:小学生当時、小池さんにとってのヒーローは誰でした?


小池:誰だろう?釜本さんが来たことがあって、プロ選手を始めて生で見た!みたいな感覚はあったかな。あとはやっぱり先輩たちがサッカー上手かったから、格好いいなと思ってた。


中尾:小学生時代、父親はどういう存在でした?


小池:父親はね、愉快な人だった。保険会社に勤めていて旭川の時は支店長みたいなポジションで、当時は基本的に出す商品とか金額がどこの保険会社も一緒で、本当に人付き合いで仕事を取るみたいな時代だから、親父は週7日のうち週6日ゴルフに行ってた。これが仕事だって(笑)

   あとは、部下の人を家によんでジンギスカンパーティーをやったり、その部下の人と一緒にスキーに行ったりとかしてた。


中尾:コミュニケーション能力が高いというか、面倒見が良かったんですね。

   母親はどういう存在ですか?


小池:母さんは、あまり出しゃばる感じじゃなくて、かと言って静か過ぎるわけでもなく、本当ちょうど良いというか。構わないでいてくれるけど頼ればやってくれるみたいな。


中尾:小池さんが親になってお子さんとの関係性とか接し方において違うところや参考にしている部分はありますか?


小池:良いところは真似しようと思ってるし、ダメなところは引き継がないようにしているつもり。    良いところで言うと、(子ども)本人がやりたいように(やらせる)というスタンスでやっている。自分も親にそうしてもらって良かったと思っているので、(自分の)親以上にそうしているかもしれない。子供にも。自分の人生は全部自分で決めなさい。その責任も自分で負うんだよ、というのは言ってる。


中尾:その後、岐阜に移る訳ですが、引越しを繰り返すことによる、良かった点と大変だった点は?


小池:大変だった点で言うと、やっぱり最初にお友達がいない環境に飛び込まなきゃいけないということと、ある程度(交友関係などが)出来上がってるところに入るので、「転校生だ」という感じで見られるというのはあったかな。


   だから最初は少し慎重にはなっていたと思う。いじめとかにも合わず、友達もできたから多分すごく恵まれてたんだと思う。それぞれのクラスがウェルカムな感じだったんだね。


中尾:中学生時代に岐阜に引越しをする訳ですが、部活はサッカーですか?


小池:そう、中学から高校までずっとサッカー部。


中尾:中学時代に将来どんな仕事に就きたいとか就くんだろうなというイメージや希望はありましたか?


小池:中学時代は仕事に関しては全くなかったかな。

   小学生の時まではプロのサッカー選手とか言ってた気がするけど、中学の時は(就きたい)仕事のイメージは無かったんじゃないかな。


中尾:高校から横浜に戻る訳ですが、それはどの段階で決まっていたんですか?


小池:(中2から岐阜で)父親の転勤周期が大体3年だったから次にどこに行くかは分からない状況だったんだけど、高校になって転校となるとなかなか難しいので、横浜が持ち家だったこともあり、(高校入学の)このタイミングで横浜に戻ることに。


   反対に、兄ちゃんは既に高校に通っていたから兄ちゃんは卒業するまではということで、横浜で自分と母親、岐阜で兄ちゃんと父親で分かれて1年過ごすことに。


中尾:そうすると、中2で岐阜に移ったあたりからある程度その話(二拠点生活)は出てきていたんですかね?


小池:親の中では出ていたのかも。(神奈川県で中学2年時に実施していた)ア・テストを県外受験で受けているからある程度は話をしていたのかな。

   

   自分はそのテストの仕組みも重要性も全く分かってなくて、対策も何にもしていないけど、とりあえず受けておかないとダメだってことで。


   多分、(進学した)高校の中でア・テストの点数一番悪いと思う(笑)

   (高校の)県外受験の相談会か何かで、(中学の)内申が良かったから最初は学区内の上位校を狙えるみたいな話だったけど、ア・テストの結果を見せたら中堅校が良いかもという話に(笑)


中尾:そんなに差が出るものなんですね。



<高校時代>



中尾:いよいよ我々が通った高校に進学する訳ですが、サッカー部に入ることは決めていたんですか?


小池:中学はそんなに強くないチームで、ちょっと悪い子たちが多くて練習もちゃんとしない感じだったから、もう少しちゃんとやりたいなと。


中尾:同級生は何人くらい入部しましたか?


小池:最初、結構多かったよ。20人ぐらいいたんじゃない?


中尾:高校の部活は結構辞めちゃう人も多いじゃないですか?辞めようとかつまんないなとか思ったことはあります?


小池:高校では無いかな。多分ないと思う。正直、中途半端な辞め方をしていったメンバーもいたから、なんかそれは格好悪いなって。

   あと単純に、凄い楽しい場所だったから。愉快な子が多かった。

   だから、もちろん(練習とか)辛いんだけど、楽しいことも多いから。


中尾:特に印象に残ってることは?


小池:とにかくよく笑っていたと思う。爆笑することもあったし、仲間の明るさに助けられたかな。


中尾:進路はどう決めてたんですか?


小池:その頃までは自分の人生とかを考えたことがなくて、大学受験で初めて自分が何をやりたいのかということを多分考えたんだよね。


   その頃、パイロットになりたいと思ってて、家の隣の人がパイロットだったから話を聞きに行ったり、羽田空港まで飛行機の説明会みたいなのを聞きに行ったりとかもしてたんだけど、視力が悪いとダメだということで早々にパイロットは無理だとなり。


   でも、何でパイロットになりたいの?って考えた時に海外とか色々行けるのが格好良いと思う、みたいなことを高校の先生と話をして、「それならとりあえず英語は必要なんじゃない?」みたいな流れになり、国際学部というところに興味を持ち出したのかな。


   当時はまだ国際学部みたいな学部があまりなくて、選択肢がいくつかしかなかったんだけど、それらを受験し幸い第一志望も合格したので、その大学に進んだと。



<大学時代>



中尾:一般的な大学生はバイトと遊びに明け暮れて、学校行っても友達とただ駄弁ってるだけっていう感じですが、いかがでしたか?


小池:結構体力があったから、全部やった。遊びもしたし、バイトもしたし、大学の授業もちゃんと出て、ほぼフル単で4年の最初に(必要単位を)取り終えて4年の後半はほとんど出なくていい状況にしてたから。


   遊びもサークルも雪山バイトもしたし、ピザ屋のバイトもずっとしていたし、留学もしたし、そんな感じでアクティブだったんだろうね、全部やったって感じ。だから大学時代はほとんど家にいなかった。


中尾:留学はどのタイミングでどれくらいの期間行ったのですか?


小池:大学2年の夏休みの1ヶ月半、イギリスに。


中尾:国際学部で入学前にイメージしていたような学びは得られましたか?


小池:実際は「国際学」というものがある訳じゃなくて、国際社会とか国際経済とか国際法とか国際〇〇ということで、要は区切りの問題で、世の中いろんなことを国際的に考えるっていうのが国際学部でそれを追求するための手段だということが理解できてきて。


   3年のタイミングでゼミを選ぶことになったんだけど、別に経済とか法律にすごく強い関心があったわけじゃなくて、どちらかというと、文化の比較とか、自分は日本をもっと知りたいな、他国と比べて、ちゃんと(日本について)説明や会話ができるようになりたいと。


   ハワイに行ったことがあるんだけど、そこで日本についてうまく自分の言葉で話せないということに気づいて、海外に行った時にそれを話せないと、そもそも議論の土俵に上がれないと感じて、それで国際学部なのにゼミで日本文化を選択して。


中尾:それは面白いですね。

   そんな中で4年次に就職活動が始まると思いますが、どういう風に就職先を決めていったんですか?


小池:流れはいたって普通で、国際(学部)だから、それを仕事にというのは当時あまり無くて。無くはないけど、それに固執してる訳ではなく、保険や金融にも興味があったから保険業界を中心に受けていたかな。あとは貿易とかをやっている会社もちょっと受けていた、商社とか。


中尾:最終的に新卒でどういうお仕事に就いたんですか?


小池:とある商社の子会社で保険事業をやっている会社があってそこに就職をしました。、


   国際取引をしている会社ということで関心があったんだけど、説明会で先輩社員に「大学生のうちにやっておいた方が良いことありますか?」と聞いたら、「今のうちに遊んでおいた方が良いよ!」って言われて「あ、この人は面白い?!」と思って、それでその会社により興味を持って受けてみたのかな。


   総合職の採用は2人だけで、一般職が女性6人いたんだけどそのうちの2人が同じ大学で、2+6の8分の3が同じ大学という。


中尾:その割合はなかなか無いですね?!


小池:ちなみに、役員面接で遅刻してる(笑)


   でも、それは理由があって、元々その前に他の会社の役員面接が入ってて、その後に予定が入ったんだけど、スケジュールがギリギリだったからちゃんと人事の人に「実はその前にこういうスケジュールで、ちょっと難しいかも知れません」って言ったら、「ちょっと遅れてもいいから、終わってすぐタクシーで来てください」って言われて。


中尾:そういった事前対応も見ていたんでしょうね。



<社会人(会社員時代)>



中尾:初任給は何に使ったか覚えていますか?


小池:たぶん親にゴルフ旅行をプレゼントしたと思う。

   何でその考えに至ったかちょっと覚えてないんだけど。ま、後々聞くと手は付けてなかったみたいだけど。


中尾:20代前半の仕事のモチベーションというのはどのようなものでしたか?


小池:あまりモチベーションというのを考えずにやっていたから。仕事は頑張るものだって、こういうもんだろうなみたいな。それはバイトの時からも思っていたし、バイトだからサボろうという発想も無かったし。


   あとは、たまたま1年目に新規の案件をたくさん取れるような案件にアサインされて、周りからも「1年目なのに(契約)取るな!」みたいな。(新入社員なのに)どこかの保険会社が接待してくれたりもして、楽しいし、ずっと勉強していかなきゃいけない仕事だから、常に丁度良い頑張り所がずっと目の前にあったんじゃないのかな。


中尾:会社員時代を振り返って学びになった点などあれば。


小池:特に印象に残ってることが2つあって、1つは社是だと思うんだけど「不利を追わず」という言葉があって、要は汚いことをして利益を取ることはダメで、まともな商売をしてちゃんと利益を作りなさい、という考え方があった。


   今の仕事もそうだけど、ちゃんとこちらも「ありがとう」と言えるし、相手からも「ありがとう」と言ってもらえる仕事だけをやろうと決めたということはあるかな。


   もう1つは、3年目の頃かな、本体(親会社)側の社員しかいなかった事業部に子会社から初めて行くように言われて、その部署で本体側の人たちと一緒に仕事をしていたんだけど、そこの上司が、教育というか進んだやり方だったり考え方で、すごく人柄もよくて。


   ある時、取引先との会食があって、先方より先にその人と到着して、「間に合ったみたいですね」と言ったら、「人を待たせるような人間になるより、待つ側の人間になりたい」って仰って、「ああ、その発想なかったな」と思って。


   (待たされて)少しでも時間を損するのが嫌だぐらいに思っていたんだけど、生き様考えている人というのは、こんなところまで姿勢が正されてるというか。そういうのを感じた上司の方で、そのエピソードはすごい印象に残っている。


   だから自分はテイカーではなく、ちゃんとギバーになるというか、人に貢献して寄り添っていようっていうのは、仕事観としても生き方としても意識したきっかけだったかな。


中尾:お話を伺う限りは、いい会社で色んなポジションがあって、人間関係も築けていたようですが、そんな環境からどのように起業という流れになっていったのですか?


小池:仲の良い高校の野球部の友達が先に起業していて、彼はオンライン英会話の事業を起ち上げてやっていて、彼とは大学の時も大学出てからも情報交換とか定期的にしていて、彼の仕事も少し手伝っていたのね、ボランティアで。


   自分も起業とかに興味を持っていたけど、別にアイデアはないし。ある時、彼に「(自分がやっているような事業を)日本語でやったら「世界初のオンライン日本語学校」なんじゃない?」みたいなことを言われて、でも当時は全然起業するつもりもないし、「ああ、そうだね」って流してたんだけど、それから自分も(起業に)興味を持って、ホームページとか簿記とかを自分で勉強したんだよね。資格を取りに行ったりして、ホームページを作って。そしたら問い合わせが週1とかで入るようになって。


   それでも月に数千円とか1、2万の売上だったと思うんだけど。そんなことをやっている中で、就職して5年目の夏かな?また異動の話があって、しかも保険の世界ではめちゃくちゃ有難いキャリアだったんだけど、「やばい?!」と思って。異動したらまた一から勉強してという話で、でも自分で(事業を)ちょっと始めちゃってるしなと思って(汗)


   だからその異動の内示を貰った翌日に辞表を出した(笑)


   一晩真剣に考えて、最後は(アントニオ)猪木の「元気があれば何でもできる!」という言葉で辞めることを決心して。


   だから会社はビックリしたと思う。関心のある分野だったり今後のキャリアや成長を見据えて環境を用意しようということを上の人たちは考えてくれていたんだと思うけど…


   上司に正直にやろうとしていることを話したら、「辞めていく人の中には同業の外資の保険会社に転職する人もちょくちょくいたけど、君がやろうとしてることは全く違うことだし、しかも教育だし、やりたいことがあるんだから、それを留めようとする人はいない、応援してる。」って言ってくれて、経営の本とかもプレゼントしてもらったりして。


   だから、引き継ぎは一生懸命やろうと思って、絶対迷惑かけないようにしますって。

   

   1ヶ月しかなかったけど、退職を決めてからの1ヶ月が一番会社にいたと思う。始発で行って最終で帰っていた。だから、有給休暇とかも取りたかったけど、取らずに働いて、それも上司たちも見ているので、そしたら本当にありがたいことに送別会もやってくれて、本当に結構な人が集まってくれて。




<社会人(起業後)>



中尾:今で言う副業みたいなことで始めてたと思うのですが、20年以上前にそれをやっていたのはスゴイですね。

   いざ自身の事業を本業にシフトしていくことになり、当たり前ですが最初から順調にとはいかなかったと思いますが、事業イメージはある程度形作られていましたか?


小池:そうだね。友だちがやっていたオンライン英会話という先行事例があるから、それを真似していけば、当時のオンライン英会話がこういう状況だからいけるんじゃないかなっていうのはあったかな。


中尾:(事業開始初期と比べ)ちょっと一段階前に進んだかな?みたいな時があったと思うのですが、きっかけや何かやり方を変えたとかありましたか?


小池:2社目の法人契約が大手コンビニチェーンで、当時はそれこそ競争(競合他社)が無いこともあり、ちゃんとSEO対策は勉強して、当時の最新の方法は徹底してやっていたから検索から問合せが入って。


   そもそも世界で1番最初にサービスを始めたというのが大きいのと、何個か決断をした中で上手くいった決断だと思うんですけど、社名を完全に検索というかSEO対策用にしたこと。


中尾:元々の対象はCとBどちらだったのですか?


小池:対象はC。そもそも(当時は法人の)オンライン日本語研修というものが無かった。

   それから少しずつ外国人の採用が増えてきて、検索してもらって。なので、売り込みをかけるというよりは、呼び込む感じ。


   とはいえ、最初は外国人が多そうな場所に行ってビラ配ったりもして、渡した傍から捨てられたりして。


中尾:起業当初はいかに認知してもらうか、いかに呼び込めるかが課題だったのですね。


小池:そうだね。多分、今思えばいろいろ試したんだと思う。とりあえず思いつくことはやる。それこそ社名から始まって、どんどん検索してもらえるような仕組みづくりや、SEO対策をやって段々うまく回って、集客が結びついて、少しずつ企業研修も取れるようになって。当時は問合せが来たものはほぼ成約していたね。


中尾:世界初ということもありますし、研修となると規模が企業ごと違うと思いますが、どのように単価設定していましたか?


小池:プライシングの勉強をしたけど、結論としては自分たちが納得できてお客さんが納得してくれるかという中で決めるのかなと。


   基本的には松竹梅の3つくらいを出して、真ん中が売れるように設定するとか。その中で参考にしたのが、例えばベンツとかBMWのクラス別の単価比較をしてみると、一番下と真ん中だと大体1.5倍ぐらい開きがあり、一番下から一番上だと2.7倍くらいになる。それをイメージして単価設定すれば、そんな間違ってないだろうと思って。


中尾:お客さまを獲得することと、教える先生を集めることを一緒にやらなければいけないと思いますが、先生を集めるにあたり質が担保されていないといけないですよね。


   応募してきた中で断るケースだったり、契約したけど更新しないケースもあったと思うのですが、どのような基準を設けているのですか?


小池:基本的にこちらから(契約を)切るというパターンは無いですが、生徒さんが定着しない人やリピート率が悪い人は、自然と居心地が悪くなって淘汰されていくのが現実かな。


   採用はオンライン日本語教育業界の中では結構厳しい基準でやっています。


   最初は案件が少なかったというのもありますし、「質の追求に終わりなし、数の追求に未来なし」という言葉があって、それを意識しています。


   オーバークオリティはダメだけど、良い質のサービスを提供していれば、小さい料理屋さんでも常連さんがいて潰れないじゃない?一方で、チェーンの安いラーメン屋さんなど、規模拡大したは良いけど質が伴わなければ上手くいかないから。


   リピート率を一番重視しているので、採用の質には相当こだわっていますね。


中尾:起業してからこれまでに例えばリーマンショックや東日本大震災、コロナ禍など社会的な大きな出来事がありましたが、どのような影響がありましたか?


小池:業界全体でいえば多分有ったのだろうけど、うちに関しては殆ど無かったかな。


   コロナの頃にはオンラインを当たり前にやっていたけど、相談が来ても正直引き受けられるキャパが限られていたから、折角来た波に乗れないジレンマみたいなのはあった。でも、リピーター中心で、変に欲を出さずに質の為にという姿勢でいた。



<家族>



中尾:お仕事の関係は一旦区切りを付けて、家族関係の、若干プライベートなことを聞いてみたいと思います。


   高1、中1の娘さんがいらっしゃって、SNSでは夏休みや冬休みに旅行している様子など拝見していましたが、家族との時間の確保、または関係づくりなどで気をつけていることや優先順位などはいかがですか?


小池:今は上の子がもう高校生になったから、だいぶ変わってきたけど、中学に上がると家族みんなで過ごす時間は減るということを諸先輩方から聞いていたので、小学生のうちは週末は(家族との時間に)全振りすると決めていた。


   だから、他の予定は基本入れていなかった。嫁さんとも話し合って「借金してでも海外に行こう」と決めていたし。


中尾:それこそ何年か前に(フィリピンの)セブに家族でプチ留学していたと思いますが、あれは行くまでにどういう過程を踏んだのか、誰が言い始めて、どういうふうに計画を立てて、どうやってみんなで「じゃあ行こう」という意思決定がされたのか、とても興味があります。


小池:どういうプロセスで決まったかはあまり覚えていないけど、海外で生活や学習をすることの方が、ただ旅行で行くよりもちょっと違う見え方がするかなと思って。


   プラス当然英語の勉強にもなるから、将来長くどっか海外に留学したいというきっかけになればいいなと思ったのもあるし。


中尾:娘さんの反応はどうでしたか?


小池:そんなに反対は出なかったかな。皆で同じところに行くし、結構アクティビティもしてくれて、校外学習みたいなところに連れて行ってくれるし。

   

   授業中はみんなマンツーマンなんだけど、朝学校まで一緒に行って、そこでバラバラに別れて、また遊び時間になると合流する、というのを繰り返す感じで。


   子供と奥さんは午後はその学校の人と街の見学に行って、自分はちょっと残ってプレゼンをブラッシュアップするという感じ。


中尾::アクティビティもついてくるんですね?

    それに親子で同じ学び舎にいるというのはめちゃめちゃ楽しそうですね。


小池:そうだね、同じ学生気分だし、教室で「バイバイ」って、そういう楽しみ方はいいと思うよ。お勧めです。


中尾:お子さんが何歳の頃に行きましたか?


小池:下の子は幼稚園の年長さんだったかも。だから、歌を歌っておしまい、みたいな感じで良く分かっていなかったと思うけど、行く前にオンラインの英会話を少し受けたりして、すぐ飽きていたけど、それでも行ったら生身の先生と遊ぶのが楽しかったみたい。


中尾:冒頭に子供との接し方の話で、本人に自分で考えて決めさせていると仰っていましたが、子どもが成長するに連れ、(親として)勝手に色んなことを期待してしまう部分とか、要求してしまうことが自ずと出てくるものかなと思うのですが、そのあたりの自分の中でのやり繰りはどうしていますか?


小池:情報として伝えていることは、多分他の親よりも多いと思う。基本は放任なんだけど、参考情報として世の中の仕組みとか経済とかお金のことを含めて話している時間は多分多いと思う。そんなテーマについて家族で話すんだみたいなことも話している。


   絶対さ、親の影響って多かれ少なかれ受けるじゃん?でも、将来子供が大人になった時、全部自分の力で、自分の判断でこの人生を歩んだ、と思ってほしいというのがあって。


   だから、良いことでも悪いことでも影響を与えないようにしてあげた方が誠実かなと思って、1人の人生の物語だから。そこに親の影響って極力少ない方が誠実かなと思っていて。


   もちろん影響を与えちゃうことはあると思うんだけど、だから何をしろとは言わないけど、そういう環境に置いてあげる、選べる環境に置いてあげるのは、少しは優しさかなと。


中尾:それは相当忍耐力がいると思いますが。


小池:いるよね。それでも、なんというか必要経費じゃないけど、親の関わり方って当然そこの差なんじゃないのかなと思うよね。


   よくほら、ちっちゃい子供が「なんでなんで」ってすごい聞くの、あれ、面倒くさくなってくると親は「もう知らないよ」って言うと思うけど、あれに徹底的に付き合った。


   あと例えば、絵本の読み聞かせもすごい工夫して、めっちゃ抑揚をつけて、自分のオリジナルストーリーぐらいな感じでやると(子どもは)本を読むのが楽しいと思って、楽しいと思ったら、もうあとは自分で勝手に読む。それはちょっと最初に工夫したとこかな。


   子どもは小学校の図書カードを6年間で何枚書いたんだろうっていうくらい読んでた。



<趣味>



中尾:小学校時代は週末は(家族との時間に)全振りしていた訳ですが、どのタイミングでマラソンだったり、トライアスロンだったりに時間を使うようになっていたんですか?


小池:マラソンは最初の頃は大会に出てなかった。ジョギングとか平日の夜の練習会には参加するけど日曜のイベントは基本全欠席。


中尾:そうなんですね。


小池:中高学年にあがってから年に1回2回大会に参加してみたいな感じで、上の子が中学上がるくらいからトライアスロンを始めて。


中尾:トライアスロンは非常に負荷の高い種目だと思いますが、続けているのはどういう点からですか?


小池:単純に攻略しがいがあると思っていて、すごいマネジメント力が問われるスポーツでそこが面白い。


   スポーツとして面白いし、やってる人たちが面白いかな。基本、努力をしている人しかいないし、その上でタイムマネジメントができる、仕事ができる人しかいないから、こちらもいろんな刺激をいただいている。あとはやっぱりヘルシーだし。



<最後に>



中尾:もう間もなく50代を迎えるという中で、仕事とプライベート、それぞれで50代に向かって新たにやってみたいこと、チャレンジしてみたいことはありますか?


小池:50代か、あまり明確に考えてなかったな。


   仕事は(これまでの)延長というより、実は最近はもう未来予想をしないようにしていて。分からないんだもん。だからテーマで言うと「臨機応変」かもしれない。


   多分今までだと、これまでの蓄積とか経験とか、その貯金で50代を走っていくのがやり方だったのかもしれない。ただ、今は状況が少し違うような気がしていて、AIとかは、IT革命と同じぐらいインパクトがあるようなことだと思っていて、だからあまり変に「これをやろう」と決めつけないようにしていて、むしろどう柔軟にやっていくかが仕事のテーマかな。


   もちろんやってきたこともあるし、日本の良いところを広げるとか、外国人のファンを増やしたいという根本は変わらないから、そこには関わっていきたいけれど、やり方としては臨機応変かも。


   プライベートに関しては、もちろん家族を幸せにするのは変わらないけれど、思春期の子供も大人になってきたら関わり方が変わってくるから、そこはタイミングを見ながらね。

   親の役割として求められるものも変わるから、そこも臨機応変でいいんじゃないかな。今の年代からは、あえて関わらないことが優しさだったり、離れることが愛情だったりするかもしれないから。


   あまり自分が「こうしなきゃ」というのはないですね。様子を見ながら、求められたらもちろんサポートはするけれど。


   あとは趣味のトライアスロンですね。続けていきたいな。

   もうちょっと速くなりたいかな。気合と根性でどうにかなるもんじゃないからね。仕事と似ているような気がするけれど、泳ぐ、バイク、走るの3種目それぞれに必要ことがたくさんあるし、その合間にあるトレーニングの仕方だったり、エナジー管理だったりね。

   

   もちろんマラソンも楽しむんだけど、マラソン以上に俺が惹かれているのはそういうところかな


   ラッキーなことに(トライアスロンの)日本トップクラスの人が周りにいて、そういう最初に会ってる人たちのレベルが高すぎて、まだまだ全然。


   (年齢が)一回り違うのにこの熱心さ?!みたいな。その周りにいる仲間たちもみんなそういうレベルで、それこそ世界選手権に出ている人たちだから、(自分は)まだまだ。


   向上心ですね(笑)


中尾:今日は色々なお話ありがとうございました。



中尾が出会ってきた方と過ごした時間の中で、どのような影響を受け、

自身が形成されているかを知るきっかけにしたいと思い、始めた企画ですが、

今後も定期的に会いたい人に会いに行き、話を聞いてみたいと思います。


それでは第27回お楽しみに。


ではまた。



                                      (了)




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