【私の会いたい100人:第24回】
- nakao3126
- 2 日前
- 読了時間: 16分
「私の会いたい100人」
ただただ私の会いたい人に会いに行って話をするという企画でございます。
絵になるのか、内容のある話になるのか、そんなことはお構いなし
会いたい人に会って、出会った当時、一緒に過ごした当時の話やその後の話、
はたまた今後の話について色々と話を伺っていきたいと思います。
そして今の自分がどういう方々からの影響を受けて形成されているのか、
ということを知る一つのきっかけになればと思っています。
それでは、第24回
お楽しみに

中尾: 「私の会いたい100人」第24回のゲスト
ナリちゃんこと 成合 政博 さんです。
ナリちゃんは、中国は大連で一緒に球蹴りをしたり飲んだりしたりと多くの時間を共に過ごしてくれた仲間で、私をチームに迎え入れてくれた当時のキャプテンでした。
自分の意思を正直に発信しつつ、周囲を立てながらチームをまとめ上げ、年上、年下関わらず人望が厚い
本日のお客様 成合 政博 さんです。
<オープニング>
中尾:インタビューの冒頭に皆さんに聞いているのですが、名前の由来は?
成合:母親が、行く行くは政治家か博士になるように、みたいなことを言ってはいたんですけど、本当にそうなのかな?って。
中尾:名前の由来によって何か影響を受けたこととかは
成合:無いですね(笑)
政治家を志すつもりも無いし、博士も、小さい頃に恐竜が好きだったから考古学者になりたいとか、そういう気持ちはあったかもしれないけど、真剣にそこを突き進もうっていうのは無いですね。
〈幼少期〉
中尾:宮崎出身だったと思うけど、生まれも宮崎?
成合:生まれも宮崎。市内だったので、海は比較的近かったけど、平地の住宅街でした。
父親がウインドサーフィンをやっていたので、海に連れて行ってもらった記憶があります。
幼稚園の時は園庭に入れたりしたから、よく遊びに行ったりとか。あとは、隣に住んでいた隣の従兄弟と遊んでいた記憶はありますね。
中尾:親とか周りからどんな子どもだったと言われていました?
成合:母親からは、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」みたいな言葉をよく言われていた気がします。
すぐに行動しないタイプだったらしくて。
母親はとても厳しかったですね。僕の友達からも「お前の母ちゃん怖い!」って言われるくらい厳しい母親でした。
あとは、小学校低学年くらいまではちょっと太ってたし、運動も苦手で、しかも姉と兄は宮崎の優秀な学校に行っていたんですけど、僕はそこに入れなくて、公立の小学校に入っていたので、自分だけ行けなかったというコンプレックスは抱えていたと思います。
たぶん親からはプレッシャーを受けていなかったはずですけど、ネガティブな印象を自分では持っていたのかなと。
中尾:兄弟で一緒に遊ぶとかは?
成合:一緒に遊ぶことはあんまり無くて、学校の友だちと遊んでましたけど、兄がサッカーやっていたので、小学1、2年生はサッカーやってて。
あとは、子供会のソフトボールとか5年生からミニバスが始まって、当時スラムダンクが始まって直ぐくらいだったこともありミニバスケットを始めて。3か月でやめましたけど(笑)
中尾:小学生の頃など夢中になっていたやよく遊んでいたことは?
成合:記憶しているのが、小学校低学年の時に夏休みとかに図書館で本を100冊ぐらい読んでたことがあって、「東大とか行くんじゃないか?」って母が言ってたらしい(笑)
あとは将棋クラブで将棋にハマっていた時期もあったし、絵を描くのがすごい好きで、小学校の時は親もそうですけど、姉とかに聞いても、絵は上手いって言ってもらっていました。
だから、漫画とか絵とか。結構内向的だった。本にしても絵にしても1人でずっと読んだり描いたりしていました。
中尾:絵は今も描いていたりするの?
成合:子どもにちょっと描いてあげたりすると子どもも喜ぶじゃないですか?そうした時に、楽しいなっていうのは思いますね。
まあ、昔はもっとうまかったなっていう感覚もあるし、ちょっと描き直したいんだけど、時間ないからいいや、みたいな納得いかない感じはありますね。
当時も本当にちょっとそっちの道に行こうかなと思った時があるんですけど、中学に入るとやっぱり美術部の人とか圧倒的に上手いから、そういうのを見ると、自分には才能は無いなと。
中尾:子ども時代のご自身にとって、親御さんはどういう存在だったのか、或いは今の子育てにおいて影響を受けている部分があれば。
成合:自分の親にこうされたからとか、そういうのは特に無くて、父親はずっと単身赴任だったから父親像というのも特に無いので、これを真似しようっていうのは特に無いかな。
あると言えば、父親が家にいなかったのが、ちょっと寂しいっていうのがあったので、子供といる時間はできるだけ多くしたいというのと、アウトドア、父親が海とか連れていってくれたのは楽しかったので、子供と一緒にアウトドアをやるようにはしているかな。
今考えると、父親は僕を外に連れ出すっていうのは後付けであって、海に行きたいのは自分がやりたかったのかなっていうのはあるんですけど、それはそれで、親も子供も楽しんでいるのが一番だから。
家族でキャンプに行ったりとか、長男が釣りが好きで、一緒に釣りにいったりとか、そういった時間は大事にしてまして、自分の親がこうだったからっていうのを考えると、子供との時間を大事にしたいっていうことを今一番大事にしてますね。
〈学生時代〉
中尾:中学は地元の公立学校に?
成合:そうですね、ほぼ同じ小学校の生徒が中学校に上がる感じで。
中尾:部活は?
成合:サッカー部に。
(小学生時代に)ソフトボールをやっていたので野球部も考えたんですけどヤンキーっぽい子達が集まってて、サッカーは、小学2年でやめたとはいえ経験があってもう1回やってみたいというのがあって。
経験者も少なくて、自分も経験者に毛が生えたようなレベルですけど、それほどレベル差は感じなかったですね。
でも、当時の顧問がサッカーをやったことない先生でとりあえずグラウンド20周走って、1年はボール拾いみたいな感じで、最初の何ヶ月かは雑用だけでしたね。
中尾:そんな中で続けていこうというモチベーションは?
成合:1年生大会という1年生だけの大会があったんですけど、それで15対0で負けたんですよね。でも、みんな一生懸命やってたし、先輩も2個上の先輩はめっちゃ怖かったけど、1個上の先輩は面白かったし、なんかやってて、楽しかったですね。
中尾:学業の方は?
成合:割と勉強頑張りましたね。というのが、兄から高校の話を聞いていて、自由で開放感がある校風でめちゃくちゃ楽しそうで、どうしても行きたいと思って割と勉強はやっていた記憶がありますね。
希望通りの高校に入れて、高校に入ったので安心しすぎて、勉強しなくなりましたけど。それでもめちゃくちゃ楽しかったですね。
中尾:自由だったり、開放感とかっていうのは、どういったところで感じました?
成合:中学までは本当に縛り付ける感じだったので、例えば男子はみんな丸刈りで女子は肩にかかっちゃいけないとか、スカートは膝より下とかで、(頭髪チェックで)この指から出たら髪切ってこいみたいな。
覚えてるのが全校集会で校長先生が着ている燕尾服がゴキブリみたいで友達が「飛ぶぞ、飛ぶぞ」みたいな感じで言っているのが壺にハマって笑ってしまったら、体育館に正座させられて、バーンって蹴られたりとか(笑)
そういう中学時代だったから高校は髪型も自由だし、学ランが短ランだろうが長ランだろうが良いし、ある程度常識の範囲内でみんな自由だったっていうのはありますね。
例えば文化祭も軽音楽部はなかったですけど、バンド組んで出たりとか、体育館でライブハウスみたいに、ガンガン盛り上がれるみたいな感じだったし、体育祭もみんな集まって楽しかった。
高校でもサッカーをやっていましたけど、先輩も怖くなかったし。
中尾:(高校卒業後の)進路についてはどのようなイメージでしたか?
成合:姉も兄も某国立大学に行っていたのでそのイメージはあったんですけど、やはり高校だと(中学とは)レベルが違ってて、(1年時に勉強してこなかった分が)取り戻せないというか思ったように行かずに受験の時は全然でしたね。
「家に居たらお前は勉強せん」って親に言われて北九州の予備校の寮に入って勉強して。鉄格子があるんですよ。門限も5時で予備校終わったら、すぐ帰らないといけない。それで2回違反したら、強制退寮に。
それでいくつか受けた中で東京の大学に受かって。うちの親がちょっと変わっていたのが、大学は絶対東京に行けっていう人だったんですよ。東京で生活しなさいっていう考えがあったから、とりあえず、全部関東の大学だけ受けて。
中尾:「東京に行きなさい」というのはどういった考えがあったんですか?
成合:宮崎の片田舎でずっとそこしか見てなかったら、やはり視野が広がらないから、1回は東京に出ろって。
中尾:大学生活はどうだった?
成合:もうひどい(笑)典型的な日本の大学生のパターンで。
それでも単位は3年生で取り終えるぐらい順調に行っていたんですよ。4年の時は卒論しかやらなくて。
大学の時は一時期教員になろうかなと思って、教職過程も受けてたんです。ただ、やっていく中で教員になるのはなんか違うかなと思うようになって教職課程からは外れることになって。
特に大学の時にどんな仕事をしたいとか目標もなく、なんとなく友達と麻雀やったりとか遊びっぱなしだったんですけど、大学時代に一番興味を持ったのが映画だったんですよ。
映画を観まくってて、知り合いの伝手で制作会社のADのバイトとかやらせてもらったんですけど、やっぱりめちゃくちゃ過酷な世界で、人権が無いような世界で。
そういう、本当に人権が無いような扱いを受け続けるのに耐えられるほど僕は熱を持っていなかったので、そっちの道を諦めて、本当に何しようかなとか考えましたけど、(映像の道に)進もうと思っていたので、まともに就活をしていなかったので、就職浪人してアルバイトで生活していました。

〈卒業~大連〉
中尾:卒業から大連に行くまでどんな流れがあったの?
成合:飲食店でバイトしていたんですけど、やっぱりこのままじゃダメだなと思って就職を考えてる時に、当時たまたま父親が中国で仕事をしていて、上海なんですけど、大学の卒業旅行で上海に行って中国の熱を感じていたこともあり、父親に相談したら、上海は標準語じゃないから、大連に伝手があるから話を聞いてみたらといって日本語学校を運営している方を紹介してもらって。
その人を通じて大連に留学しようと思って連絡したら取りあえず来てくださいって言うから本当に何も考えずに、ビザも取らずに取りあえず行ったんです。
中尾:ビザを取らずに?!
成合:はい。それで大学に行ったら、ビザがありません→留学できません→「え、俺また帰るの?」って思っていたら父親が紹介してくれた方に「うちの日本語学校で働きませんか?仕事しながら中国語を勉強したら良いいいじゃないですか?寮もありますよ。」と言われてそこで仕事をすることにしました。
中尾:留学予定から仕事で行くことになりましたが、大体何年ぐらい行こうという予定はありましたか?
成合:そこもあまり考えていなくて。ただ、その経営者、何年か経ったら、新しいビジネスを考えているのでそれを一緒にやりたいと思っていると言われていて、面白そうだなと思っていました。
実際、カツさん(中尾)が大連に来た時は多分もうその仕事だったと思うんですよ。ただ1年で「新規ビジネスが軌道に乗らなかったから撤退します。また日本語学校に戻ってください」って言われて、日本語教師に戻りたくなくてコンサル会社に転職したんですよね。
なので、それまでの3年か4年ぐらいは日本語学校で働いていました。そこの寮が汚いしお風呂もないし、トイレもいわゆる中国のトイレで…
洗濯機も無いから、自分で洗濯して絞って外に干すんですけど、2月とかだとバッキバキに凍って(笑)
まだ20代だったので、そういう生活が楽しかったんですけど、そんな中で他の仕事をやっていた非常勤講師の人が日本人の野球チームがあるから一度見に行かない?って誘ってくれて、それから日本人のコミュニティを知ることになって。
野球チームの中にサッカーも兼任している仲間が何人かいて、それでサッカーも行くようになって。
ただ、日本語学校の給料は高くないから、市内に行くのもバスで行ったりしていて。そんな状況でしたが、サッカーチームの先輩が色々配慮してくれたお陰で参加しやすくなって。

〈帰国後(名古屋①)〉
中尾:6,7年いた大連を離れることになるけど、帰国の流れはどういうものだったんです?
成合:今(勤めている)の会社が大連で仕事をしていた時の取引先なのですが、役員の方から中国語ができる人材を探しているんだけど、どうかな?ということで誘われて、日本で正社員として採用してもらえるし、中国語も活かせるしということで、帰国して転職することにしました。
中尾:実際帰国し、入社してからはどうでした?
成合:名古屋で研修を受けながら、海外の仕事に向けた準備をという風に思っていたのですが、プロジェクトの方向性が大きく変わって、当初の話はほぼ無いような状態に。
中尾:その時はどういう感情だったの?
成合:最初は出張で中国、台湾企業の方にプレゼンしたりして、中国語を使いたい、海外駐在したいというのはあったんですけど、一方で、日本国内でもこういうこともやれるなとか、色々興味があることが色々出てきたりしていたので、それほどネガティブにも考えず今やれることをやろうと。それで、営業部に移動させて下さいと。
他にも海外進出に関する事前調査でタイに行ったりとかしましたし。友人にタイのコンサルを紹介してもらって話を聞いたりして経費計算とかして。
日本人駐在員を送るという計画があったけど、駐在コストが現地の方の生活費レベルで計算されていたりして、そのあたりを纏めて会社に報告書を提出したりして。

<東京転勤>
中尾:営業や経営企画などする中で東京に移ることになる訳ですが。
成合:少し別のポジションでやりたいというのがあって関東に行って営業をやってみたいという話を会社にして、そしたら丁度、新規事業の空きが出るということで関東に行くことになって。
ただ、当初勤務先に指定されていた事業所と別の勤務先に通勤することになって、通勤に1時間半ぐらいかかって。仕事内容も思っていた内容とは違いましたが、子供が2人目生まれたばかりで、自分が言い出して異動したので結果を出さなきゃいけないんだと自分を駆り立てていましたね。
通勤時間も長いし、結果を出さなきゃいけないから長時間働こうってなったら、毎日4時間、5時間睡眠でずっと過ごして、徐々にずるずる擦り切れていくみたいな感じで、それは気づかなかったんですよね、自分で。
その内に仕事上で強いストレスを受けた時に、後にも先にも初めてなんですけど、動悸がして、心臓がバクバクして、「あ、これ、ヤバい」という感覚になりました。それから全然集中できなくなって、仕事のスピードも遅くなったり、とにかく思考力が落ちました。
それで病院に行ってみたら適応障害ですねって。振り返ってみると名古屋にいる時から、呼吸が息苦しいとか酸素が入んないみたいな感じの時もあって、自律神経がずっと乱れていたんだろうなと。
最初は認めたくなかったんですけど、仕事も捗らないし奥さんからも病院に行った方がいいって言われて認めざるを得ないというか、認めて。
ただ、会社の事情で直ぐには休めなくて、休みに入るまでの期間は人との会話ができる気がしないというか頭に情報が入ってこないという感じでした。とりあえずそこを乗り切って一旦休むことにして。
最初の頃は家族と近所に出かけるだけでも全然歩いてないのに疲れて、ちょっと座らせてくれっていう感じで。体力なくて何もできる気がしなかったんですよ。とりあえず、寝てましたね。
そこから回復してゆく中で、ある程度また色々考えることが増えていき、ひたすらこの病気について勉強しました。外歩けるようになったから最初は10分の散歩から始めて、で、動くと、不思議とちょっとずつ体力が回復してきて、じゃあもうちょっと距離を延ばしてみよう、って。
それで奥さんがいない時に家事をやろうとか、今できることちょっとずつやっていって、朝ちょっと歩くとことから走ることに変わっていって。そうやっていたら、もう8キロぐらい走れるようになったんですよ。それで気持ちも前向きになって来たので、そろそろかなと会社と今後について話をし始めて。
会社が提案してくれた中に名古屋の選択肢があったんですね。親身に対応してくれて自分を求めてくれているのだと思って名古屋に戻ることにしました。
ただ、しばらくは関東に居る必要があったので、徐々に慣れていけるような割合で仕事を入れてもらって。
中尾:理解のある会社だね。
名古屋に戻るという話に対して、家族の反応は?
成合:それは一番気にしていたんですけど、奥さんもいいんじゃないって言ってくれたので本当に助かりました。

<名古屋②>
中尾:名古屋に戻るタイミングで3人目の出産も控えていたと思うけど。
成合:そうです、しかも奥さんは1、2、3月は絶対安静ですって言われてて、けど、その時長男が幼稚園で次男が保育園に通ってて、送り迎えもやらないといけないし、奥さんが動けるようになるまで家事もやらないといけないみたいな感じだったので、会社に事情を伝えてテレワークに切り替えさせてもらって…
そんな中で荷づくりというか引越しの準備もして。だから本当に、最初に(奥さんが)ずっと入院かもって言われた時は、次男はギャン泣きするし、本当に「ガーン」って感じで、絶望的な感じでしたね。
なんとかそれを乗り越えて、名古屋にまた戻って…
中尾:その色々を乗り越えて名古屋に戻っているので、名古屋に腰据えてということだと思いますが、住環境含め名古屋での生活はどうですか?
成合:奥さんもパートを始めて、色々なママ友とかもできて、新しい環境にも慣れてくれたようで助かっていますね。子供はすぐ順応するから、問題なくやってくれてると思うし、何より名古屋は住みやすいので。
関東にも行きやすいし、子供がUSJが好きで大阪も車で直ぐ行けるし、釣りもキャンプも行きやすいし、物価もそんなに高くないし、みんな割と満足してくれてるんじゃないかなって、生活は幸せかな。
<クロージング>
中尾:それでは最後の質問ですが、40代半ばを迎えて、50代が見えてきた年代ですが、仕事とプライベートとそれぞれ今後やりたいことチャレンジしたいことがあれば教えてください。
成合:一旦体を壊してから健康であり続けることが一番大事だと考えるようになったので、すごく健康には興味があって、自律神経とか、最近は背骨に興味があったり、骨とその神経についてとか、そういうところに興味があります。
もともと筋トレも興味があって、最近また筋トレを始めたんですけれど、こないだ長男に「大きくなったら何になりたい?」って聞かれて、「マッチョになること」って言ってしまったので、プライベートで言うと、筋トレで体を鍛えたいというのが今やりたいことです。
仕事で言うと、今は経理の仕事をしているんですけれど、ずっと会計的な知識を求められながら、真剣に向き合ってこなかったので、そこを勉強しようと思っています。その上で、海外のグループ会社に関われる仕事をやりたいなと思っています。
中尾:今日は色々とありがとうございました。
(了)





コメント