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【私の会いたい100人:第21回】


「私の会いたい100人」


ただただ私の会いたい人に会いに行って話をするという企画でございます。


絵になるのか、内容のある話になるのか、そんなことはお構いなし


会いたい人に会って、出会った当時、一緒に過ごした当時の話やその後の話、

はたまた今後の話について色々と話を伺っていきたいと思います。


そして今の自分がどういう方々からの影響を受けて形成されているのか、

ということを知る一つのきっかけになればと思っています。


それでは、第21回


お楽しみに



「私の会いたい100人」第21回のゲストは


 木村先生こと 木村 義彦 さんです。


木村先生は、私が初めて部活としてサッカーに触れた高校時代のサッカー部の監督で、フィジカルの強さを目の当たりにし、大人と学生の違いというか差を強烈に思い知らされた方で、本当にサッカーが好きで、サッカーが好きで一生懸命な選手やそれを応援してくれる人が好きで、使える全ての時間とエネルギーを部活に注いでくれた恩師


本日のお客様 木村 義彦 先生です。


●幼少期


中尾:先ず、「義彦」という名前の由来は?


木村:僕は双子で、僕は義彦で兄が智彦なんです。どういう風に名付けられたかっていうのは、実はハッキリ聞いてないんですよ。

   ただ、仁義礼智という言葉があったり、あとうちの兄弟は両親をすごく尊敬していて、まず人のために考えて行動するようにと、そういうのもあって付けられたって。

   2人とも名前通りに育ったねってよく言われる。


中尾:小さい頃、例えば幼稚園の頃のことは覚えてますか?


木村:(兄弟)いつも一緒にいて、本当に仲良く遊んで喧嘩をした記憶はあまり無いんだけど、写真には(喧嘩している様子が)撮られてて。

   幼稚園の時の記憶で1つ覚えてるのは、ゲタ箱で僕が誰かと喧嘩したのかな?

   他の男の子と喧嘩してたら、うちの兄弟が割って入って、それで結局2対1で相手を泣かしちゃったっていうことがあったんだけど、幼稚園の先生に僕が呼ばれて、「2人で1人に対してやるのは良くない」って言われた時に、「2人でやってない」って僕が言い返して、「2人で喧嘩しちゃったんじゃないの?」って聞いてくるから「分身の術を使いました」って言って先生を困らせた記憶がある。


中尾:生まれも(横浜市)鶴見ですか?


木村:生まれも鶴見。


中尾:何年生まれですか?


木村:僕は1966年。


中尾: そうすると間もなく還暦になる歳なんですね…

   小学生の頃に流行ってたこととかは?


木村:小学校時代に流行ったのはハンドボール。あと野球もやってたし、それこそ戦いごっこみたいなこともやってたし、ピンポンダッシュもやってたし、外での遊びはありとあらゆることやってましたね。


   テレビゲームとかゲームセンターができたのが小学校5、6年ぐらいで、当時は不良の温床って言われたところだから全く行ったことがなくて。だから今だにゲームとか苦手で。


   当時は自然があったからザリガニとか沢蟹なんかも捕れてて。


中尾:漫画とかテレビとかはどうでした?


木村:テレビはあまり見てなかったかな。テレビ見てるより遊んでた方が楽しかったし。

   毎年大河ドラマは観てたけど、、、

   あとはウルトラマン、ウルトラセブン、仮面ライダー系は観てた。

   

   6年生の時にはサッカー選手になりたいって書いてたけど、それまではウルトラ警備隊員になりたかったんだよね。ウルトラマンを助ける警備隊員になりたかった。


中尾:小学生時代に何か習い事などはしていましたか?


木村:兄弟2人でバイオリンやってました。


中尾:音楽なんですね?!

   最初からバイオリンですか?それともピアノとかから始めてですか?


木村:最初からバイオリン。

   父方が美術職で父の姉が2人美術家だったり、その子どもが絵描きだったり音楽家だったりで。

   父は野球とサッカーをやってたみたいで。


中尾:バイオリンは何歳ぐらいから始めたんですか?


木村:バイオリンは始めたのも終わるの早かったね。小学校1年で始めて、5、6年生の頃に遊びたいからやらなくなっちゃったんだけど、

   音が綺麗なのは覚えてて、またやりたいなっていうのはあるけど。小学3年、4年ぐらいの時に父の知人の結婚式で披露したこともあった。


中尾:とても喜ばれたでしょうね。それにしても芸術家の家筋だったとは全く想像できませんでした。


木村:その先生も絶対に無理強いしない先生で、自分たちの性格を分かってたから続けさせようともしなかったし。


中尾:そんな中で6年生の時にはサッカー選手になりたかったということですが、その時はもうサッカーをやってたんですか?


木村:当時は野球の時代だったので、野球道具は一式揃っていて、家の前でよく3人でキャッチボールやってたんだけど、父とボール蹴ったっていう記憶は1回だけで、小学校1年の時に当時あったドリームランドで遊んで。

   で、その時1年生だったけど覚えてて、左で蹴ったら上手いって言われて、右で蹴ったらうまくいかなくて「よっちゃん左利きだね」って、その時左利きということに気がついて。


   その後、小学校に少年サッカーっていうのがあって、6年になった時に、兄弟が入ったのを見て、じゃあ入ろうかなって。

   5年生の時からやってた子はみんな上手くて、これは敵わないなって思っていたけど、やってみたら、それほど難しいスポーツじゃなかった。


中尾:プロなんか無い時代で、大人のサッカーの試合を見る機会はありました?


木村:無いですね。その頃は「赤き血のイレブン」っていうアニメがあって、それのモデルになったのが浦和南高校で、高校の大会で3冠取ったんだ。選手権、インターハイ、国体。    国体も全部浦和南の選手だった。この「赤き血のイレブン」の主役の選手がいて、主役の選手と逆サイドのウイングやった準主役のモデルになったのが、僕の大学の時の監督。


中尾:そうなんですか?!


木村:でも、それぐらいでテレビでサッカーを見るとかは無かったかな。


中尾:子ども時代のご自身にとって、親御さんはどういう存在でした?


木村:母は優しいイメージ。父親はよく一緒に遊んでくれてたな。休みの日は、釣りに行ったりとかしてたんで。

   父は社交的だった。特別怒られたっていうような記憶とかイメージはないですね。

   母親も後から考えたらちょっと世間ずれしてるというか、あまりテレビとか見ないで、フランス語のラジオ聞いてたり。


中尾:(お母さまは)お嬢様な感じだったんですね?


木村:うちの母親そうかも。おじいちゃんは銀行関係に勤めてたんだけど、当時からヨットとかもやってたと思う。

   一番最初にサッカーの試合に連れてってくれたのはおじいちゃん。

   奥寺がブレーメンかケルンに所属している頃に韓国代表との試合を宇都宮でやるってなって、連れていってくれた。


中尾:当時ではおじい様は結構開けた視野を持ってた方ですね。


木村:おじいちゃんはそうかも。戦時中にスパイと間違えられて疑いかけられたらしい(笑)


中尾:本当に全然知らない情報が次々出てきますね(笑)


●学生時代


中尾:小学校6年生でサッカーを始めて、中学ではサッカー部でしたか?


木村:中学の時は部活一切やってない。


中尾:そうなんですか?!


木村:入れば良かったんだけど、簡単な話、2個上の先輩が、ちょっと怖い人たちで、あまり良い噂を聞かなかったので。

   近所の暴走族に関係してる人たちで、もう時代だから、「ビーバップハイスクール」とか「今日から俺は」みたいな、ああいう感じの先輩達だったから。


   それで、部活入らなくてもいいかな、みたいに思ってて、でもサッカーは好きだから休憩時間とかにボールは蹴ってて。

   本当に好きだったら入ってたんだろうけど、中学2年の時は担任にも勧められたんだけど、入れなかったな。

   上手かった友だちも誘ってくれてたけど、何か一歩足が出なかったっていうより、途中から入る気がなかった。

   でも高校では、やろうっていう風に決めてて。


   (結果的に)やらない方が良かったのかな、と思ったのは高校とか大学でやった時に、口だけだった奴をたくさん見てるんで。

   「中学で地区選抜だった」とか「埼玉で得点ランキング何位で」とか。でも全然大した事なくて、それ(過去の成績)で満足しちゃってみたいな。


   そういうのを見ているので、中学でやってたら違う高校に行っていただろうし、もしかしたら大学でやってないかもしれない。


中尾:小6の時にサッカー選手になりたいって書きました、でも、部活としては中学時代にサッカーに関わってない訳ですが、中学の時に将来何になりたいっていうのは何かイメージありましたか?


木村:全く無かったな。サッカー選手も一旦ちょっと宙ぶらりんの状態になって、別の選択肢も特に無いっていう感じだった。

   何になるんだろうなって考えたことなかった。


   ただ中学3年間は楽しかった。クラスの雰囲気も良かったし。


中尾:どういう風に高校の進路を決めたんですか?


木村:サッカーをやりたいと思っていたから、いくつか高校の練習を見に行って。これ真面目にやってんのかな?って思う学校もあったし、そんな中で取組み方がが他と全然違う学校が1つあって、「レギュラー取れるのかな?」っていうのも考えたことあったけど決めた。


   ただ、後日談が有って、実は見てたのは隣の大学グラウンドだったていう。結局入って良かったけど。


中尾:ずっとやっているメンバーと比べると技術面の差はあると思いますが、体力面はどうでしたか?


木村:体力はねそれほど負けた記憶はない。


中尾:当時は結構走らされたりしましたか?


木村:走らされたけど基本的に1年生だけとか1軍以外走ってろということはなくて、練習後に全員で6㎞とか。

   卒業生とか先生の知り合いがコーチで来た時は色々やらされたけど。

   顧問の先生はフラットというか、厳しくなく、温かい人でしたね。


   体力面は全然問題無くついていける。ただ、人の倍練習やるっていうのは、そんなもん無理で、でも人の1.3倍ぐらいやったと思う。


中尾:チームとしての成績は?


木村:都大会、どんな感じだったかな。

   最後の選手権の予選は3回戦目かなんかで日体荏原と当たって、先制して、追いつかれて、もう1点取って、残り5分ぐらいでまた取られて、それでPK戦になって。

   一番最初に蹴ったのが中学時代に東京都で3年連続優勝したメンバーだったんだけど、彼が最初外して、それで負けちゃった。

   「俺のせいだ」って、今年の正月も言ってたよ(笑)


中尾:一生背負ってるんですね。

   大学はどういう風に選んだんですか?


木村:1年の時に担任だった先生とすごい仲良くて、推薦してやるから順天堂大学に行けって言われてたんだけど、推薦の時期はもう過ぎてて(笑)

   それでN体大かK大が良いかなと思って、K大のセレクションを受けたりもして。

   結局一般入試でN体大に進んで。


中尾:大学によっては推薦組じゃないと体育会サッカー部に入れないとかあると思うんですけど、どうでしたか?


木村:N体大は希望すれば全員入れる。部活に入らない人もいる。

   あと、入っても辞める人が多い。それ程厳しいという感じはしないんだけど。

  

   あとは大学のサッカー部だと無理だって決め込んでサークルみたいなところに流れる人もいる。

   (高校サッカー)選手権に出た人たちが集まってくるから無理だろうって。実際は選手権に出た選手もそんな変わんないからね。


中尾:体育大学は教育課程を取るのが基本ラインですか?


木村:いや、そんなことない。当時はバブルの時だったから、企業なんかからもすごい勧誘が来てたし、証券会社とか商社に進む人もいたし。


●指導者の道①


中尾:先生はどうやって進路を決めたんですか?


木村:大学の先輩から話が来て、今のサッカー部の顧問が転勤になるから、もし就職が決まってないんだったら、監督で来てくれって。

   それで非常勤講師の枠を当時の教頭先生が取ってくれて、それで入ったんだ。


中尾:県立高校で監督としてとか非常勤講師としてっていうポスト設けることは一般化してたんですか?


木村:非常勤で監督で呼ばれるっていうのはない。そこは結構教頭先生が尽力してくれたと思う。


中尾:何年契約とか決まってましたか?


木村:何年契約というのはない。その非常勤の枠が無くなったら自動的に無くなるので。

   私学とかからも声は掛かってて、1つは女子高でゼロから作ってほしいっていう話とか、中高一貫校から誘いがあったり。

   あとは時間が前後しちゃうけど、東京のアンダー18の女子選抜チームが何チームかあって、そのうちの1チームの監督を2年連続で任されたりして、評判も良くて、なんで評判が良いかって言ったら、単純な話、楽しませながら勝たせるから。


   他の県の先生から大批判だった。何だか分からないけど、うちのチームが勝った時にやったパフォーマンスが気に食わないって。

   相手に失礼なことは1個もやってないのに。それで都の人が謝ってきたって。


中尾:やっぱり狭いコミュニティが出来上がっちゃってるんですね。

   そういう強いチームと比べるとだいぶレベルが違うK高校に赴任したなというイメージだったのかなと思いますが、

   そういう中での教えるモチベーションとか、この子らとどう付き合おうみたいな葛藤とか考えはありましたか?


木村:実は最初はちょっと問題が色々あったんだ、知らないと思うけど。

   1番最初に顧問の先生に県内で1番弱いって言われたんだけど、へえ、そうなんだと思って見に行ったら、そんなことないんだよ。

   結局なんで勝てないかっていう理由があって、分析するのが最初の仕事だから、そこから見なきゃいけなくて。

   その前までOBのコーチがついてたけどOBのコーチのやり方はどうだったのか、そういうのを確認して、これは要らない、これは要らない、じゃ、これをやろうっていうのでやってくしかなかったんで。


   (これまでの練習は)何か面白い新しい練習をどんどん入れてるような感じがして、それじゃダメだし、サッカーの基本的な考え方ってどういうことなのかなっていうのを選手たちに伝えることが出来てなかったと批判したら、そのOBがへそ曲げちゃってちょっと大変だった。


   そのうち、そのコーチが俺についてくるのか、新しく来た方についていくのかどっちなんだ、みたいな感じになっちゃって。


   それである時呼び出されて行ったら部員が全員いて、あとから教頭先生も来て、「何だ?」と思って見てたらこっちの批判がそのコーチから出始めたから、ちょっとした理屈を言って黙らせたんだよね。

       その時の3年生はそのコーチのことが多分好きだったし、でも、僕が来てやり方が変わって、ちょっとうまくいったから(OBのやり方への)疑問も持って見てたと思う。


   言っちゃいけない一言とかあるじゃん?その時にそれを言っちゃったんだよね。


   「僕のやり方とかも黒板に書いて説明して、聞いてもらったんだけど、それでもまだそういう風に(批判など)言うのは、もしかしてここで皆の前で僕に恥をかかせたいの?」って聞いちゃった。


   そうしたら黙っちゃって、それでそのOBが次に口開いて何か言おうとした時に教頭先生がぶち切れて「お前はもう出入り禁止だ!」って。


   そのOBも「僕の話もちょっと聞いてください」っていう風に言えれば良かったし、僕も、「今までやってきたやり方どうなの?」っていう風に聞けば良かったんだけど、僕は最初からこのやり方じゃ勝てないなと思って、強いチームにしよう、サッカーどうやったら楽しくできるかっていう風に、その為にはクセをつけなきゃいけないから。


   そういう出来事があった。3年生も僕の言うことは分かってくれたし、能力があったから良かった。ある程度上手くなったし、サッカーが好きな子もちゃんと残ってくれたし、理解できる生徒たちがいたから雰囲気は良かったよ。


中尾:なかなかドラマチックなことがあったんですね。

   最弱と呼ばれていたという話がありましたが、私が1年で入って、3年生の試合を見た時に、めちゃめちゃいい試合で、全く弱いイメージは無かったですね。


   先生は約4年でK高校を離れましたが、赴任時に、ここまで持って行きたいとか、こういうチームにしていきたいなっていうのがあったとした場合に、最後離れる時はどんな気持ちでした?


木村:全体的に見て学年ごともバラツキがあったけど、県で30位ぐらいのレベル、大抵のところはどことやっても恥ずかしくない試合ができるようになったかなと。


中尾:3-5-2のシステムを採用していましたが、選手時代に3-5-2のシステムは?


木村:選手としては無くて、文献で。N体大の図書館にサッカーのあらゆる本があって、奥寺康彦監修の本とかに3-5-2のことがちょっと書いてあって、3-5-2のシステムをやるにはどういう練習がいいのか、っていうのはもう全部自分で考えた。


中尾:文献からってすごいですね。


木村:でも僕がやってた練習は、FA(イングランド)なんだよ。ドイツじゃない。

   イングランドのアラン・ウェイドっていう人が書いたFA式のサッカー教則の中の8歳から12歳ぐらいの練習をずっとやらせた。


中尾:そうすると選手の技術レベルとかから、きっと当てはまるだろう、より上の高校と対峙するには、このフォーメーションがいいだろうということで採用したってことですよね?


木村:そうだね。他でやったことない。


●指導者の道②


中尾:その後にコーチとしてH高校との関りが始まりますが。


木村:H高校の顧問が筑波のサッカー部出身だったんだけど、あまり教えるのが得意じゃないから時々練習見に来てくださいって言われて。


中尾:H高校は何年くらいやったんですか?


木村:長かった。最後はコロナの時だから20年以上。

   K高校ってすごい先生たちがやりやすかったと思うんだよね。だからK高校のこと先生たち大好きだった。

   部活とか関係なしで全体の雰囲気が良くて。


   それと比べるとH高校はまたちょっと別で、なんだろうな、ちょっとプライドが。

   負けず嫌いっていうか、1回サッカー部に入ったら、途中で辞めるのは落ちこぼれることになるから、それは自分で許せない、みたいな。

   K高校の子は辞める子は辞めるじゃん。やりたいことやるみたいな。(H高校は)正直な気持ちを出せない子が多いから不登校になってる生徒も多かったよ。


中尾:学年によって色は多少あると思いますが、この学年は期待持てるかもみたいな、そういう年代もありました?


木村:1、2回あったかな。

   練習試合の会場にバイクで行ってたら、途中で追い抜かした奴がいて、それがサッカー部の奴だったとか(笑)


●指導者の道③


中尾:H高校と掛け持ちしつつ、ご自身での事業も始まっていくと思うんですけど、ご自身の事業はいつから始めたんですか?


木村:2011年。


中尾:どんなきっかけがあったんですか?


木村:友達から誘われて。その友達が勤めることになった大きな幼稚園があってその中でスポーツクラブを作ると。それで、スポーツクラブを作ってサッカーもやるので、それを一緒にやらないかと連絡が来て。タイミングも良くて一緒に始めたの。


   ところが、理事長と友達がちょっと色々意見が合わなくて。彼は僕より先に1年やってたんだけど、僕が入って何ヶ月かで辞めることになって。

   

   それで理事長から3つの選択肢を挙げられたんだ。


   1つ目は、このまま職員として幼稚園の業務だけやって、スポーツクラブの業務は外に丸投げする。

   2つ目はスポーツクラブを外に委託するけども、ある程度の内容に関わる。

   3つ目は(スポーツクラブの事業を)僕が全部やる。


そんなの根性を見られているようなもんじゃん?それで全部やりますって。


中尾:当時はもう会員さんはいるんですか?


木村:いる。幼稚園児と小学生で100人はいなかったと思うけど。


中尾:サッカー以外にもやるんですか?


木村:サッカーだけやるっていうのはうちの幼稚園はダメで、サッカーだけやってれば楽なんだけど、月曜日と水曜日がサッカーで、火曜日と木曜日がスポーツクラスで、金曜日は国有地のグラウンドを借りて小学生向けにやってて。


中尾:全部やることになって、どういうことが大変でした?


木村:人だよ。

   一緒にやってくれる人。最初は理事長先生が1人入れてくれたけど、彼は本当にサッカーしかやりたくなかったから1年で辞めて。

   辞めるのを分かっていたから、その間に一緒にコンビ組める人を探して何とか人の確保ができて。


   会員も当然増えていくんだけど、色んな習い事が入って来るから、絵画教室とか、ダンスとか、英会話もあるし、ミュージカルもあるし、空手もあるし、だから1年やって、ちょっと別のやってみようかなっていうのも出てくるよね。


   小学校に上がってそのまま続ける子もいれば、小学校のチームに行く子もいるし、クラブチームに行く子もいるし。ただ、そもそもグラウンドも限られているし、地域の中でみんなサッカーやってるから、それでオッケーだよって、だから辞めるのが申し訳ないとかは要らないですよって保護者の方には言ってて。


   うちから(他のチームに)行く子はみんな評価が高いので。

   よく言われるよ、どういう風に教えてるんですか?って。教えてるわけないじゃん園児に。一緒に遊んでるだけだよ。楽しいなと思えば勝手に上手くなってく。


中尾:幼稚園児を話聞く時間座らせておくことも難しいじゃないですか。そういうのはどうしてるんですか?


木村:僕は「ダメですノート」っていうのを付けていて、ダメですノートに名前書かれるとさよならバスが連れてっちゃうよって。

   いい子にしてたりとか、1個褒められたら名前が消えるよってするといい子になるじゃん。よく出来たじゃんって褒めて、ほら消えたって。


中尾:高校生を教えるのとやっぱり考え方とか全く違いますか?


木村:違う違う。高校生は勝たせないと。ただ、勝たせるっていうのはサッカーやってる中ではそんな大きいことじゃなくて。人間性だったり周りの関係性だったり(他に大事なことは沢山ある)。

  

   教え子で山梨の強豪校に行った子がいて選手権にも出たんだけど、(勝つことだけを目指した)高校の3年間が一番楽しくなかったって。

   だから大学では部活には入らないでサークルでやるって。


中尾:そういうのはありますよね。


   年単位で見た時にどの時期にビッグイベントがあるんですか?

   この大会を目指してみんなやろう、とか。


木村:大会は各学年ごとバラバラであるんだけど、年末に幼稚園サッカー大会があって幼児園の子たちはそれを目指してっていうのはある。


中尾:保護者の方の関わり方というのは?


木村:基本は預けるところまでで、あとはこちらでって感じ。

   試合の時はねちゃんとみんな見てる。


中尾:口出してきますか?


木村:言わせないようにしてる。少年サッカーとか、サッカーの規定で決まってるから、保護者から励まし程度はいいんだけど、専門的なこととかハラスメント的なことは絶対言わないでくださいって。そこはルールがあるから、こっちも伝えやすい。


●最後に


中尾:50代後半を迎え、仕事、プライベートそれぞれで今後やりたいこと・チャレンジしたいことを教えてください。


木村:仕事のことはもう当然、楽しくやってるからいいんだけど、ずっと出来てないことがあって。

   またちょっと時間ができたらバイクにテント積んで北海道行きたいなって。


   (過去に北海道で)色んな経験をさせてくれたっていうのがあって。『北の国から』に憧れて北海道に移り住んでる大学時代の仲間がいて、彼がいたから行こうと思ったんだけど、あんなに広くて、あんなに人が良くてっていう場所は無いかなと。


中尾:その方に会うのも一つの目的として。


木村:泊まる場所とか決めないでテントでいつも行ってたんだけど、ここ10数年行けてない。

   当時と同じバイクをまだ乗ってるので、もう50年前のバイクなんだけど、またそれで、行ってみたいなっていうのはある。


中尾:素敵ですね。

   それでは今日はありがとうございました。



ということで、今後も定期的に会いたい人に会いに行き、話を聞いてみたいと思います。


それでは第22回お楽しみに。


ではまた。


                                      (了)




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