【私の会いたい100人:第23回】
- nakao3126
- 2 分前
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「私の会いたい100人」
ただただ私の会いたい人に会いに行って話をするという企画でございます。
絵になるのか、内容のある話になるのか、そんなことはお構いなし
会いたい人に会って、出会った当時、一緒に過ごした当時の話やその後の話、
はたまた今後の話について色々と話を伺っていきたいと思います。
そして今の自分がどういう方々からの影響を受けて形成されているのか、
ということを知る一つのきっかけになればと思っています。
それでは、記念すべき第23回
お楽しみに

「私の会いたい100人」第23回のゲスト
団長こと 古川 亞紀子 さんです。
団長は、大連時代に部署は違うけど同じ会社で勤めていて、社内のサッカー部で、その熱というかエネルギーが特殊というか、プレイヤーじゃないのにチームを束ねるようなエネルギーを持っていて、メンバーにとっては必要不可欠な存在だったかなという方です。
同じ年ですが、当時は部署も違うし、仕事上の付き合いもありませんでしたし、帰国後も会う機会がなかなか無かったので、今回は色々と話を聞いていきたいと思います。
〈オープニング〉
中尾:インタビューの冒頭に皆さんに聞いているのですが、名前の由来は?
団長:父親と母親の言ってることがちょっと違うんですよ。
中尾:面白いね?!
団長:母親はミキちゃんとかエミちゃんとかそういう名前をつけたいと思ってたらしいんだけど、父親がそんなのはスナックの女の子の名前みたいだから駄目だって。
父親としては結婚しても似合う名前が良いと思ってつけたらしい。最初は晶子にしようとしたけど、親戚に同じ名前の人がいて、他の字にすることになったらしいんだけど、
その時に、お祖父ちゃんと父親のやり取りの中で旧字体の「亞」になったらしく、最初は役所から「こんな字はありません」とか言われたりひと悶着あったらしい。
中尾:誕生日は?
団長:11月7日、いい女の日。
中尾:良いね!
団長:(誕生日の数字を)実家の車のナンバーにしてて、二十歳くらいの時に父と一緒に仕事してた人が「いい女ナンバーじゃん!」って言ったの。
それまでは時報の日とか言ってたんだけど、「いい女の日?イケるねぇ!」みたいな(笑)
〈幼少期〉
中尾:小さい頃の思い出とか、何か印象に残ってることはあります?
団長:ちっちゃい頃は幼稚園に入るまで全く話さなかったらしくて、ブーブとかそういうのしか言えなかったらしくて、ちょっと発達が遅れていると思われていて相談とかも行っていたみたい。
でも、幼稚園に入ったらすごく喋るようにはなって。ただ、どっちかって言うと内気な子だったみたい。
出しゃばりたいけど出しゃばれないみたいな感じで、幼馴染の女の子と常に一緒みたいな。
中尾:小学校に上がっても変わらず?
団長:根は引っ込み地味なところは残ってたと思う。強い子の後ろにいる感じかな。
器楽部っていう、部活とはまた別の活動が有って、それに参加するようになって自分の意見を言うようになったかも。
中尾:それは自分から参加したの?
団長:そうだと思う。良いなと思って。周りの友達もお姉ちゃんとかがやっていて、それで一緒に入ったって感じかな。
初めはアコーディオンで、最終的にはクラリネットをやっていたけど、6年生の時に赴任してきた先生に、「下手すぎる」って言われて、ピアニカをやらせられてる時もあった(苦笑)
中尾:それ以外にも習い事として音楽はやっていた?
団長:ピアノかな?「エリーゼのために」とか弾けるようになりたいと思って始めたの。
今も時々弾いてる。昔みたいには弾けないけど、ちょっと気分転換になるっていうか、好きなんだと思う。
中尾:他に何かハマったこととか、熱中したこととかある?
団長:ハマってないけど、書道は師範まで取った。なんか雅号を持ってる。
でも特別好きだったわけではなく、母親に「書道辞めるなら他の習い事も辞めなさい」って言われて辞めなかったら続けてやってた。でも字を書くこと自体は嫌いじゃない。
中尾:書道、ピアノというと割ときっちりカッチリ系の習いごとだね。
団長:やっぱり周りの子がやってるからやる、みたいな感じだったとは思う。
あとは、母親があまり裕福じゃなくて小さい時にやってみたかったピアノがやれなかったので、出来るだけ子供(がやりたいもの)はやらせてあげたいって気持ちがあったらしくて。
だから、私がやりたいって言うと、やらせてくれた。
中尾:それ以外のプライベートな時間の遊びとか、友達とか、交友関係とかは?
団長:小学校の前に駄菓子屋さんもあったから、駄菓子屋さんで買ったりとかして、結構、大人数で遊んでた。
『リボン』とか『なかよし』とかの雑誌を買うようになったら、その雑誌を買って付録を誰々さんと一緒に作るとか、そういうのを多分、中学年か高学年ぐらいの時にやってた気がする。
特にインドアに偏ってるとかアウトドアに偏ってるとかも無く、本当はいけないんだけど、屋根の上とか乗って2階から降りたりとか、どちらかというと外が多かった気がする。
中尾:昔はそんな感じだよね。
団長:うちの子どもとか児童館が近くにあるから行って同級生や高学年の子と遊んでいるんだけど、「何やってんの?」って聞くと「シール交換」って(苦笑)
中尾:自分が子どもの時の親御さんはどういう存在だった?
団長:父親はね、怖いけど優しい。父親は大好き。
母親はなんか私のことどうせ嫌いなんでしょ?みたいな感じで思ってる節があった。
何かのやり取りで私も行きたいと言ったことに対してお祖母ちゃんが「(あんたは来なくて)いい」みたいなことを言った時に母親が何のフォローもしてくれなかったとか、
お祖父ちゃんとどっかに行く約束してたんだけど、急遽仕事が入って行けなくなった時に嫌だ嫌だって言っていたら母親から「我儘言うんじゃない!」みたいな感じですごい言われて…
今でも覚えてる。
中尾:自分が親になって、かつての自分と親との関係性を考えた時に違いを感じます?
団長:今はね、まだ小1だけど、お母さんは(大人だけど)出来ることもあるけど、出来ないところもありますっていうのめっちゃアピールしてる(笑)
お母さん忘れちゃうから、覚えといてとか。
中尾:自分の子ども時代を振り返って、子供の頃と変わってない部分と可、性格変わったなとか、考え方変わったなとかってあります?
団長:小さい頃はすっごいキチキチやりたい子だったんだけど、トーストにバター塗ってる時に「何だその塗り方?ちまちま塗ってA型だな」って父親から言われたのがとっても嫌で、なにかと大雑把にするようになったと自分では思ってる。
夫から見ると極端なようで、ここキチキチしてんのに、なんでこっちできないの?って思われている。
例えば、封筒を開ける時に夫はハサミで切るのに、私は糊付けのところをベリベリベリって破る。開けばいいじゃん、みたいな。中身が見えればいいじゃん、みたいな。
〈学生時代〉
中尾:中学校に上がってからは何か変化ありました?
団長:私の中で、性格が変わったというか、思春期についていけなかった。
1年生の時はまだみんな、塾も一緒に行ったりとかして仲良しの感じだったんだけど、色んな小学校から集まってる中学だから、派閥じゃないけど対立みたいなのがあったりして、グループがあって、でもそのグループ内で色々があって、そのグループを抜けてとかいうのがあって、なんかこういうのヤダなーみたいな。
他の友達と仲良くしたりもしてたんだけど、自分の中でモヤモヤするなみたいな感じで過ごしてたかな。
自分も、「○○がこう言ってるよ」とか話を聞くとその(言ってる)子のことを信じちゃってたこともあったから、後から思えば○○ちゃんの意見を聞いてないよなって。
中尾:勉強は?
団長:勉強は好きだった。
すごい成績が優秀な子がいてその子の影響もあって勉強はできるようになった。
でも、先生とも色々あった。
成績面では公立の一番上のランクに行くことも出来たんだけど、父親が私立への進学を希望していたので、私立を第一志望にして、公立の1番上のランクの高校を滑り止めにして受けますって言ったら、そうするとイメージが良くないからやめてくれって言われて、それなら次のランクの学校だったら良いですよねって言ったら、そこを第一希望にしている子がいるからやめてくれって。
結局(私立の)単願で行ったんだけど。
中尾:先ほどの話だと、高校の進路はある程度決まっていたの?
団長:父親から、高校はここへ行くんだと言われていて、まあ別にいいかみたいな感じで何も考えないで、そこに行くものだと思ってた。
その為に勉強してた訳じゃないけど、小学校の時に家庭学習でシールを集めると何か貰えて、そこから勉強が好きになったから、その延長上でやってた。
中尾:中学時代にこういう仕事に就きたいとか、こういう道に進みたいみたいなものは?
団長:全くなかった。普通の人になりたいみたいな。高校行って大学行って就職して結婚するで良いんじゃない?くらい。
中尾:高校生活はどうでしたか?
団長:友達と仲良くやりたいなみたいな、部活動も楽しくやりたいなみたいな感じで入って、楽しいは楽しかったんだけど(中学からエスカレーターの)内部生とかがいて、
雰囲気的に1年生の時は馴染めない部分とかがあった。
中尾:部活は?
団長:バレーボール部に。
当時、春高バレーに出場したいという監督の夢があって、強化してる時だったんだけど、私は全然バレーボールできないのに入部して。
学年で主力だった子とかも高2ぐらいになると辞めていっちゃったりとかして、私が思い描いてた部活動の、みんな仲良くみたいな感じにはなれなかった。
ただ、2年生の時はクラスの雰囲気が良かったのかな?結構楽しく過ごせた。修学旅行も楽しかったし。
その時も、服(のセンス)ダメダメだからって友達が一緒に服屋さん行って選んでもらってみたいな感じで楽しく過ごせていたかな。
中尾:なぜ高校からバレーボールをやってみたかったの?
団長::元々お母さんがママさんバレーやってたし、父親も高校生の時にバレーボールやってたから。
中学でバレーボール部に仮入部した時に、サーブレシーブで手が腫れてこれじゃピアノが弾けないからってバレーボール部への入部は諦めて。
で、(高校のバレーボール部に)入部したら監督がまさかの父親を教えてた先生だった。高校の中には父親の同級生の従弟とか、父親が習ってた先生とかいっぱいいて、
気づいてなかったけど後から思えば、あれは父親が心配だから、この高校に入れて、見守るじゃないけど、だから実は色んな人に囲まれてた状態で。
中尾:高校までは父親の考えもあり、道筋ができていたけど、高校卒業後の進路はどういう風に決めていくの?
団長:何も決めてなかった。やりたいことないから、とりあえず大学行って決めようかな、みたいな。
英語勉強しても話せないから、勉強したくなくてそれなら「中国語だ!」って。小学校の時から家でこれからは英語と中国語だみたいなこと言われてたから。
中華料理が好きじゃなかったから、それは嫌だったんだけど。
チャーハン、ギョーザ、ラーメンは好きだけど、エビチリとか特にあんかけ系が苦手で。。。
中国文学が専攻だから語学にすごい力入れてるわけじゃないんだけど、発音とかそういう授業はあった。
私は帰国子女や、高校から中国語を勉強してる子とか、華僑の子がいるクラスに入ってはじめはやる気満々だったけどね。そういう子たちは、やっぱ普通にペラペラ話せるから、何かモヤモヤしながら、「やりたいことないな、どうしよう?」みたいな。
就職活動の仕方も分からないから、とりあえず公務員試験を受けて、ダメだったら中国に留学しちゃうか、とか。
そしたら、たまたま、小さな会社だったけど採用してくれたから、雰囲気も悪くないし、取り扱ってる商品も面白そうだな、みたいな。
〈社会人時代(新卒)〉
中尾:何関係の会社に就職を?
団長:水関係で、濾過とか銀イオンを使った飲み水関係とか、銅イオンを使った殺藻する装置の製造メーカーで。でもすごい小さいから、結局大手のところと組んで温泉とか公共施設に導入したりしてて。
中尾:最初のお給料を何に使ったか覚えてる?
団長:覚えてないなあ。でも、やっぱり(自分を)真面目だなと思うのは、その頃から外貨貯蓄だけはやってた(笑)
中尾:シッカリ者だね。
大学を卒業して就職した訳だけど、どういう流れで大連に繋がるの?
団長:勤めていた会社が経営危機で、元々ボーナスが出てなかったんだけど、これから給料も出ないことがあるかもしれません、みたいな感じで今だったら会社都合で辞められますって。
辞めることもできるし、続けることもできますって言われていたんだけど、当時、これだけ頑張ったらボーナスじゃないけど手当を出しますよって言われていたものが出来ませんって言われちゃって、これ以上、何を目標に頑張ればいいんですかってやる気なくしちゃって、辞めますって。
それで、「来月から失業して、何もやることないって」高校時の先生に話したの。
面白い先生で、書道家でもあって、高校卒業してからも、高校の書道室に時々遊びに行ってたんだよね。 そしたら先生に、孔子学院っていうのができるから、行ってみたらと言われて。行ってみたものの、英語(に対して)と一緒で中文科なのに中国語話せないし、一年間勉強してから、再就職だなと思ってた。
そんなことをしている時期に反抗期が訪れます(笑)
社会人になってからって交友関係というか新たに知り合う場って限られてくるでしょう?友達から誰か紹介してもらうとか。
すると、(親が)出かける度に色々聞いてきたり口出してくるからなんか嫌だなというか、このままだと本当に結婚も出来ないし、何も出来なくなるなと思って、家を出ようと。
それならいっそのこと海外だ、みたいな感じで公開家出(笑)
〈大連~上海時代〉
中尾:いざ大連ということになりますが、それが何年?
団長:2007年。
中尾:先ほどの新卒時の経歴からすると、大連でのIT関連の仕事は初めての内容だと思うけど、自ら志望したもの?
団長:特にどこの部署が良いとかは無くて、多分試験で割り振られたと思う。
中尾:住環境も仕事環境もガラっと変わって、大変な時期とかは?
団長:始めの2、3日は音が無くてすごい寂しく感じちゃった。テレビもつかないし、車が通るぐらいの音はするけど、人の声とかが無くて、すごく寂しく感じて、若干これはホームシック?って思ったんだけど、テレビが見られるようになった途端大丈夫になった(笑)
あと、(中華料理が元々は苦手だったから)食事はやっぱり困って、クッキーばっかり食べてたらお腹壊しちゃって。
でも、(中華じゃないけど)ビビンバを見つけてからは大丈夫になった。それから段々と辛いのも食べられるようになり、ビールも飲めるようになったりして。中華も米線をきっかけに食べるようになった。
中尾:仕事の面は?
団長:トレーニング期間中も、とりあえず(先に)進みますっていうのが駄目なタイプで、1から10まで教えてくださいみたいな感じだから、途中で躓いて、色々相談したりしていたこともあった。
中尾:最初どれくらいの期間大連にいるつもりだった?
団長:何年というか、中国語が話せる様になるまでという感じで、1、2年?
ただ、なかなかスムーズには行かないよね。お金をかけず、友達を作ってとか紹介してもらった子と連絡取り合ってとかしてたけど、あまりうまく出来なくって。
異性だと面倒なこととかあるから、やっぱり異性はダメだなと思ったり、日本語が全然話せない(人が相 手だ)と仲良くするのってすごく難しいと思ったり。
(異性を対象とした)そういう気があるんだったら上手くいくのかもしれないけど、(自分は)なかなか上手くいかないなと思いながら生活してた。
中尾:そんな中で(会社の)サッカー部との繋がりはどうやって生まれたの?
団長:それまで観に行ったことなかったんだけど、会社のサッカー部に入っていた同期の男子が帰国することになって、皆で応援に行ったのがきっかけ。
そしたら、サッカーよく分かんないけど、なんかこういうの楽しいなと思って。それでマネージャーやりませんか?みたいなこと言われたけどマネージャーはイヤで(応援)団長だったら良いですって。
それから試合とか行くようになった。
中尾:それこそ大連の特徴で、基本的に新しく来る人もいれば日本に帰っちゃう人もいるという、そういう出入りがあるチームな訳だけど、応援し続けようという動機はどんなところにあったと思う?
団長:(インタビューのオファーをもらってから)「私大連で何がしたかったのかな?」とかそれをちょっと考えてたんだけど、自分の承認欲求的なところがきっとあったんだろうなと思って。
うまく溶け込めきれないというか、自分は仲良くしたいなって思うけど、多分私が仲良くしたいなって思う感じと、他の人が仲良くしたいなっていう感じが違ったりするから、距離を置いちゃったり、置かれちゃったりとか、あまり人との距離感をいい感じで保てないという感じがあって。
仕事とかもそうだけど、こうしていきたいとか特に無い中で、自分の居場所的な、楽しい居場所的に感じることができたのがサッカーチームだったかなって。
それが「ガチッ」とハマるような、居心地が良い空間みたいな。サッカー観るのもそうだし、飲み会で喋ったりとかそういうのが楽しかった。
絶対に行かなくちゃいけない訳でもないし、制約もないけど、主軸メンバーがいなくなった後もチームを存続させたいから毎週メール発信したりしてやっていたんじゃないかなって思って。
中尾:傍から見ても、団長がいなかったら多分続いてなかったんじゃないかって思うところもあるね。
団長:ま、最終的にはあるメンバーと衝突して「私やりたくない」って辞めちゃったんだけどね(笑)
中尾:そうなんだ?最終的には大連を何年に離れることになるの?
団長:2012年。
中尾:先ほど、中国語が話せるようになりたいという話があったけど、ある程度目標は達成できたという感覚はあった?
団長:というか、マンネリ化しすぎちゃって…
中国語も半端だけど、なんかこのままずっといたところでどうしたらいいのかな?って。結局いつか日本に帰ることになるのにこのままで良いのかな?みたいな。
それであれば、上海にでも行って、日本に帰る前に(色々な感覚を取り戻す為の)リハビリじゃないけど、していった方が良いかなって思って。
中尾:では、2012年に大連を離れて、上海に?
団長:上海に2014年まで2年くらいいたんだけど、上海で最初に勤めた会社をなんと、2ヶ月で辞めることになって。急に来週から来なくていいって言われて。
ご飯屋さんの予約サービスの会社で、予約代行業務をしつつ(サービス利用できる)ご飯屋さんを開拓していくのが役割で、ご飯屋さんに行ってご飯食べて、ブログにあげるみたいな仕事で、そういった食事代なども(経費で)出ると言ってたのに、いざ入ったらそれは自腹です、とか、問合せが来たら24時間態勢で対応しないとダメとか、(私からしたら)そんなの聞いてませんみたいな。
結局、じゃあ来週から来なくていいですって突然言われて。
それで、どうしようってなったんだけど、とりあえずちょっと旅行とかもしながら1、2ヶ月ぐらい過ごしていて、結局日系の某メガバンクの事務をやることに。
不動産とか、(日系企業が上海で)合資会社を作るとかの時に対応する部署だった。 要は日本の法人と中国を繋げるみたいな。
〈帰国後〉
中尾:そうしてようやく帰国のタイミングが?
団長:もう35ぐらいで、結婚しないでこのままここにいるの?みたいに考えて、いや、日本にとりあえず帰った方が良いよねって思って。
父も具合がそんなに良くなかったし。結局、帰ったら2年ぐらいで亡くなっちゃったから帰るタイミングとしては本当に良かったなと思って。
中尾:日本を離れるきっかけが、家での煩わしさという話もありましたが、帰国後のお父さんの受け入れ方というか関係性はどうだったの?
団長:大連行った最初の1年は帰らなかったけど、それ以降はコンスタントに帰ってたし、最初の頃は父親からは毎晩のように電話かかってきてたから特に問題なかった。
中尾:帰国後の仕事は?
団長:30半ばで特技も無くどうしよう?って思って、調理師学校へ通うことにして、1年で資格を取ったからこれを利用して就職しようと思うわけじゃん?
ただ、求人情報は都内が多いし、若い方が絶対に有利だし、家から通うにしても遠いし、給料も安いし…
そしたら近場で給食のおばちゃんとかそういう系を探した方がいいなと思ったら、近場で福祉施設の調理員を募集してたから面接受けて、勤めることになって。
そんなこんなで2017年には結婚して。17年だよな?子供が18年に生まれるから17年だ。
中尾:結婚前後で「ここは変わったな」と思うところは?
団長:結婚直後はちょっと柔らかくなったっぽい、うちの母親が言うには。でも、最近は結構元に戻って強くなってるみたい(笑)
中尾:子供が生まれたことも影響してるのかな?
団長:どうなんでしょうね。結婚してからの方がぐうたらしてるかもしれない。(義母と同居)お義母ちゃんがいるから任せちゃってるところもあり。
中尾:一般的に二世帯生活は色々と気苦労がお互いにあるって聞くけど、そのあたりは?
団長:私はすごい恵まれてると思うんだよね。夫に愚痴ったり、(義母に)言いたいこともあるんだけど、やってもらってることが多すぎて、言いづらいっていうのがある。
甘えさせてもらってるところがあって。洗濯物はほぼ100%やってもらってるし、ちょっと前まで朝ご飯もほぼ100%作ってもらってたし。
〈クロージング〉
中尾:もうすぐ50代に差し掛かろうとしてる年代ですが、これから新たに仕事の部分と、プライベートな部分と両方で、今後取り組んでみたいこと、やりたいこと、チャレンジしてみたいことがあれば教えてください。
団長:仕事は、特別無いというか、やりたいと言っても直ぐ通る訳でもないので。
ただ、娘が「一緒に働きたい!」みたいなこと言ってるから、それまでは頑張れるんだったら頑張りたいなと思ってる。
中尾:面白い?!
団長:プライベートは、娘の成長を助けるための勉強とか、そういうことをどうにかしたいと思って。
今私も勉強してるんだけど、それを彼女に伝えてあげたいというか、うまく活用してほしいというか。
あと個人的にはどうだろう?スノボをちょっと滑れる人風になって楽しんでるかっこいい50代、みたいになれば良いかな。
30代でフルマラソンも走ったし、まだスノボも上手じゃないし苦手意識があるけど、これから上達するのカッコいいよね?って。イケてるオバさん(笑)
中尾:今日は色々とありがとうございました。
中尾が出会ってきた方と過ごした時間の中で、どのような影響を受け、
自身が形成されているかを知るきっかけにしたいと思い、始めた企画ですが、
今後も定期的に会いたい人に会いに行き、話を聞いてみたいと思います。
それでは第24回お楽しみに。
ではまた
(了)





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