top of page

【私の会いたい100人:第19回】


「私の会いたい100人」


ただただ私の会いたい人に会いに行って話をするという企画でございます。


絵になるのか、内容のある話になるのか、そんなことはお構いなし


会いたい人に会って、出会った当時、一緒に過ごした当時の話やその後の話、

はたまた今後の話について色々と話を伺っていきたいと思います。


そして今の自分がどういう方々からの影響を受けて形成されているのか、

ということを知る一つのきっかけになればと思っています。


それでは、第19回


お楽しみに


「私の会いたい100人」第19回のゲストは

 

 張さんこと 張 東(ちょう とう) さんです。

 

張さんは、「中国」は大連で同期入社の縁で仲良くなり、仕事だけでなくおそらく中国で一番お家にお邪魔したことがあるのも張さんの家で、先ず間違いなく人生で一緒にお昼ご飯を食べた相手だと思います。

見た目から分かるように大きくて丸い顔と体で全てを包み込む包容力があり、多くの方から親しまれ頼られている

 

本日のお客様 張 東 さんです。

 

張さんは今紹介でも触れましたが、大連で結構長い期間一緒に過ごしましたし、お互いの結婚式にも参列しあったりと長く関係は続いていますが、今回は滅多にない1on1なので色々と伺いたいと思います。



2009年張さん結婚式
2009年張さん結婚式

 

●幼少期

 

中尾:先ず、「東」という名前の由来は?

 

張東:ちゃんと由来があるんですよ。というよりも、お兄ちゃんが「旭」って言うんですね。

   朝日は東から昇ってくるみたいな話で、東という名前をつけてくれたんですね。

   「旭日东升」という四字熟語があるんですよ。

 

中尾:兄弟で共通したイメージがあるんですね。

   生まれ年は?

 

張東:1976年で、もう49歳です。

 

中尾:生まれは瀋陽だと思いますが、子供の頃の思い出す景色ってどういう風景ですか?

 

張東:頭に残っているのが、先ず一つは寒かったですね。今よりとてつもなく寒い感じがしますね。

   あとは、電気のバス。電線に繋がって走っている、そういうのが多かったね。

   当時は車とか無いから、どこに行くにしても遠いって感じですね。でも、バスに乗ると酔っちゃうから、あんまりバスに乗って出かけたくなかったですね。

 

   あとは、お兄ちゃんがいるので、お兄ちゃんに付いていったりして。お兄ちゃんは嫌がっていましたけどね。

   自転車で出かけて、途中で壊れたのを自分たちで直したりしてましたね。

 

中尾:そういう時代ですよね。

 

張東:あと、うちは軍の基地の中にいたから、周りの子もみんな似たような家庭というか、同級生も親同士が同僚とか、そういう繋がりが多かった感覚がありますね。

 

中尾:当時は幼稚園みたいなのはあったんですか?

 

張東:基地の中にありましたよ。というか、生まれて1、2ヶ月くらいから幼稚園ですよ。入れるというか、入らなければならないね。当時は産休も(産後)8日間とかだったから、お母さんから聞いた話ですけど、幼稚園も全寮制みたいな感じで1歳くらいから月曜から金曜は基本、幼稚園に泊まって土日だけ家に帰りましょうっていう。

 

中尾:基地だったからということですか?

 

張東:そうそう、一般的じゃないと思います。元々(自分は)内向的だったというか、(幼稚園に)泊まるんですけど、体調崩しっぱなしで、園長先生から家に連絡が入って、連れて帰ってもいいよっていうような特別な対応までしてくれたらしいですね。

 

中尾:そうすると大半の時間を幼稚園で過ごしていることになりますが、どういった記憶が残ってます?

 

張東:中国で小中大っていうクラスに分かれてたんですけど、大(年長)のクラスに2回通ったんですよ。2年間。    

5月生まれなんですが、当時は4月で(年度が)終わるんですね、4月20日ぐらいで。なので、幼稚園に戻ってもう1年やることになったっていう記憶がありますね。


   あとは、なんか幼稚園のご飯って美味しいなって思ってて、割と大きい肉まんを9個とか食べてましたね。1人2個ずつしかないけど、友だちに「オレが食べるよ」って。

 

中尾:内向的な性格で?

 

張東:いやいや、もう内向的ですよ。ただ、まあ肉まんのためなら頑張ってましたけどね。

   あと、運動会がありましたが、足が速かったんですよ。

 

中尾:その頃はまだ痩せてたんですよね?

 

張東:うん、多分ね、(小学校)1年生か2年生ぐらいの時に太りだしたんですよ。毎日豚の角煮とジャガイモの煮物を食べてたんだよね。

 

中尾:(太った理由が)明らかで良いですね(笑)

 

張東:いやぁ、ほんとほんと、ただ食べたからっていう、ただそれだけですね。

   ほんと食べ過ぎた。

   当時、毎日お肉を食べられるのが普通ではなかったことは後から分かるけどね。

 

中尾:小学校はどんな所だったんですか?

 

張東:基地の近くの学校で、たまたまなのか、軍の人たちがいたからか分からないですが、全国で4つの学校を選ぶ時にその内の1校に選ばれて。だから、未だにその小学校は有名で、だからその学区のあたりは家がとびきり高かったりするんですよね。

 

中尾:その学校に入る為に皆そこで家を買うわけですね。

   中国の小学校の授業ってどういう科目や時間割でした?

   国によっては人数が多すぎて、午前クラス、午後クラスみたいに分かれてるところもありますが。

 

張東:僕もそうだったよ。午前のクラスだったから午後1時くらいには終わってましたね。

   当時は1クラスに70人くらいいたから、6学年で多分4、 5千人はいたんじゃないかな。

 

   僕の世代って76年から一人っ子政策が始まって、僕もよく親に言われるけど、軍隊にいたから産むことができたって。

   それだけ人が多かったから小学校時代に顔を合わせたことが無くても、中学校とか高校に行って話をしてみたら、同じ小学校だったっていう人は一杯いますよ。それこそ、(日本の)大学で後から入ってきた学生と話をしていたら、あれ?って。同じ小学校の同級生だった子がいたんですよ。

 

中尾:家に帰ってからはどうすごしていましたか?

 

張東:この頃は宿題も少なかったから、ずっと遊んでましたね。

   今じゃ、絶対ありえないですが、子供一人で遊びに出かけてましたね。

   時々暗くなっても家に帰らないで怒られて。

 

中尾:どういうことが流行ってました?

 

張東:基地の物を勝手に使って自分たちの好きな形に並べたりとか、泥んこ遊びしたり、カードを叩きつけて裏返したら取れるみたいなやつとかもやってましたね。

 

中尾:日本で言うメンコですね。

 

張東:どうしたら勝てるかっていうのを考えて油をつけたりとか、ちょっと厚みを付けたり工夫してましたね。

   やっぱり楽しかったね。だからうちの子も外で遊ぶのが大事かなと思ってて、あんまり家にいないようにしてるんですよ。近所に家庭菜園できる場所があって、そこを借りて少し栽培をしていますけど、一角で水を入れたりして子どもと土で遊んだりしています。

 

中尾:素晴らしいですね。

 

張東:長男にとっては良かったと思う。だから、ずっとテレビ見たいなって感じではないですね。ただ、たまに遊びに夢中になってて、夜になって「今何時?」って聞いてきて「9時半だよ」って答えると、「テレビ見るの忘れた!」って泣き出すことも(笑)

 

中尾:子供の頃は張さんにとって親御さんはどういう存在でした?

 

張東:お兄ちゃんが結構荒いっていうか、いつもトラブルを起こしていて色々大変だったみたいですが、僕は内向的で真面目だったんで、優しいお父さん、お母さんっていう感じでしたね。

   当時もそこまで貧しかったわけでは無いけど、何でもあるような時代ではなかったでしょう?お父さんとかお母さんは、やっぱり何かあると、自分たちはよいからといって子どもの自分たちに(食べ物を)取っておいてくれたりとか、そういうのがやっぱりすごく印象に残ったりするよね。次いつ有るか分からないから食べな、という感じが多かったよね。

   今だと、好きなの?美味しかった?じゃ、明日また買ってくるよ、みたいな困るような時代じゃないじゃないですか。食べる物も着る物も、そういう困る人ってあんまりいなくて、殆どの子供たちが欲望って満たされている訳でしょ?そうすると、どこから愛を感じるの?って思いません?

   別にお金をくれたから愛を感じるっていうことでもないだろうし。

   相手も大事にしてることを、自分にくれるとかっていうのを実感しないとさ。なかなかそういう感情的なものって生まれてこないと思うから、そういうところが(親としては)困るかなと思う。

 

中尾:好きだから食べなよ、って言っても、好きだけど、昨日も食べたし、みたいな。

 

張東:だから、昔の親子間での感情的なものって今はなかなか難しいのかなって思ったりするけどね。

   羊肉串を食べたいって言っても、当時は好きに食べに行く、買いに行くことも出来ないから、お父さんがでっかい鉄の箱を使って、穴開けて手製の串焼き器を作って、マンションの6階だったのですが、1階まで降りて外で焼いて6階まで上がって持ってきて食べさせてくれたりとかね。こういうことを自分の為に一生懸命やってくれていると記憶に残るよね。

 

   なので、さすがに自分でコンロを作るまでやってないけども、子どもを連れて砂浜とかで自分たちで、火を起こしたりとか、そういう思い出って必要かなと思うんだよね。あと、釣りに連れて行ってあげたりとかね。

 




●学生時代


中尾:中学も何千人規模ですか?

 

張東:中学校も多かったね。

 

中尾:中学は日本で言ういわゆる部活は無いですよね?

 

張東:うん、そうだね。ただ、僕の場合はそれに近いものがあって、日本みたいにそもそも部活があって、みんな申し込んで入部して練習してとかではなく、自分の興味あることをまず自分たちでやるわけよ。


   それでバスケってスゴイな、格好いいなと思って中学校に入ってからやり始めたんですよね。そしたら中2ぐらいからかな、部活みたいなチームが結成されたんですね。で、そのチームに入ることは出来たんだけど結果から言うと、自分の学校は最終的に試合に参加しなかった。

 

中尾:どういうことですか?

 

張東:ねえ?(笑)

   なぜかうちの中学は大会に参加せずA中学校の助っ人として参加することになったんですね。メンバーが全部で12名なんですけど、11名がうちの学校から来てるんですよ(笑)

   だから、僕にとっては部活のような感じだったんですよ。ずっとバスケのドリブルとか練習してたんですよね。   

   自分たちの学校では土のグラウンドで練習してましたが、A中学校に行くとちゃんと体育館なんですよ。全然違うから、そこでまた練習頑張るわけですね。ちなみに僕はキャプテンでした。

   瀋陽には全国レベルの強豪校のB中学校とC中学校があって、特にB中学校は全国でも上位に入るようなレベルで。なので、誰もうちらがトップになれるなんて思ってないわけですよ。だってさ、11人もよそから借りて参加してる学校なんですから。


   だから当時のことを思い出すと涙が出るくらいの感じになるんですよね。その大会を通しての心の変化がね。

   最初は誰からも期待されずに大会が始まる訳ですよ。それで半分ぐらいまで大会が進んだ時に(優勝の可能性が)残っているのが、さっき言ったB中学校とC中学校とうちだけなんですよ、ここまで全勝のチームが。

 

   先にB中学校と当たるんですけど、これも負けるつもりでいくわけよ。ところが、前半終わって勝っちゃってるんですよ。「あれ?」と思って。「いけそうじゃない?」って。

   で、後半も残り3分で8点リードしていて、本当だったらメンバー交代するんだけど、雰囲気というか、気持ちというかメンバー交代で流れが変わっちゃうかなと思って選手交代せずに最後の3分間続けて、勝ったんですよ。

   それで皆にびっくりされて。学校の先生とか監督も、皆もう「まさか?!」っていうような感じでしたね。

 

   その時点でうちが1位になって、注目されるようになって、最後のC中学校との試合をA中学校でやることになるんですけど、相手は何十人も応援で連れてきてるけど、うちは応援してくれる人いないんですよね。

 

   前半終わって互角くらいの良い勝負で。そしたら、何十人も応援が来てくれて、多分、監督から校長先生とかに言ったんだろうけど、続々と入ってくるわけですよ。多分授業を止めて、みんなを連れて応援に来てくれたですよ。   


   そうなると、もう体育館をA中学校で埋め尽くすわけですよ。そんな中で後半が始まりましたけど、そりゃ勝ちますね。

   空気が一気に変わる。たくさんの応援によって気持ちが変わるので、勝っちゃいましたね。

   最終的に優勝して、学校側も大変。まさかですよ。

 

中尾:本当にどこかの映画プロデューサーに話を持って行った方が良いんじゃないですか?

 

張東:それで高校に入る為の受験でもそのパフォーマンスというかさ、見られるわけよ。

   高校の有名校に声をかけられて。

 

   僕ね、中学校の時にバスケやってて、結構親に反対されてたんですよ。もっと勉強しなさいと。バスケやってて、クラスで10番目くらいの成績だったんで、そんなに悪くなかったんですけど、もっと勉強すればもっと良くなるだろみたいなことを言われてて。


   それでもバスケがやりたかったからやり続けて、試合に出て、あの大会で注目されて、高校からうちに来ませんか?という話があって、親にも「ほら、やって良かったじゃないか」って話をして。

 

   でも、試験まであと1ヶ月くらいっていうタイミングでその推薦枠みたいなのを(他の人に)取られてしまって。

   後から分かったことだけど、どうも同じチームの他の子のお父さんが裏で先生となんか色々縁があったみたいで、それで自分が外れて。


   「アイツかよ!」って。試合に1回も出たことないと思うんですよ。まあ、結構泣いてましたね。

 

   でも、受験しなきゃいけないじゃないですか?あと2、 3週間しかないけど、頑張るからって。

   当時は受験前に第1志望と第2志望を決めるんですが、第1志望は推薦を外された学校にしました。

   もし受かってバスケやろうって言われても「やりません!」と決めて。


   まぁ、そう決めたんだけど点数が足りなくて入れなくて。で、第2志望は自分の得点から10点引かれる制度だったんですが、そしたら3点足りなくて、それで高校に入れなかったんですよ。

 

   その後は、国からの指示に従うかどうかで、僕は従うにチェック入れてたんですよ。そしたら専門学校に行かされたんですよ。専門学校に行く行かないっていうのは、すごく親も悩んでて。

 

中尾:それは断れるんですか?

 

張東:実は断ろうかなと思ってたんですけど、入学1週間前くらいにお父さんが「行くか」って言うので決めて。

   結果的に見ると行って良かった。楽しかったね。

   4年間の全寮制で16歳から家元を離れて、瀋陽からも出て思う存分に遊べるわけですよ。

 

中尾:寂しいとかは無かったですか?家元をその歳で離れることへの不安とか。

 

張東:寂しい思いはしなかったね。一人暮らしに対する心配も無くて、それよりも楽しいと思うことが圧倒的で。

   ほぼ勉強ゼロでしたね。本当に遊んでばっかりでしたね。

   すごく印象に残ってるのは、日本だと高校生でもアルバイトするのは普通だけど、中国ではあまりしないんですよ、でも、たまたまお母さんの友達が中国の地図とか世界地図を印刷する会社にいて、売れた分から後で(仕入れ分の)お金を払うというやり方で代理販売をやらせてくれて。


   それで道端で布を広げて地図を並べて、そこで売るわけですよ。そうすると、すっごい売れるわけよ。びっくりするぐらい。当時の授業料が2年間で220元とかだったと思いますが、それが1日、2日で稼げるんですよ。(地図が)あれば売れるわけよ。

 

   そうすると他の連中もやってみたいってなって、やるんだけど、稼いでもそこに10何人ぐらい集まって使っちゃうわけよ。手元に一切残らない。今日良かったなとかさ、誰に誰が何を売ったのかとかそういうのが盛り上がるわけですよ。楽しかったね。それで夏休みと冬休みなると各々実家に帰ってまた売るわけですよ。

 

   そういうのも親元にいたら出来ない、絶対やらしてくれない。1人暮らしだからこそ出来たことはありますよね。

 

中尾:その楽しかった時間が、3年生、4年生に進むにつれ、そろそろ学校生活が終わるってなるわけじゃないですか?その先の進路っていうのはどういうふうに決まっていったんですか?


張東:もう専門学校に行った時点から、親が卒業後の進路を考えてくれてたんですね。

   卒業するともう20歳ですが、社会人になるには早すぎると思ってて、(専門学校)2、3年目あたりで、(卒業後に)日本に行く話が出てきて。その頃お兄ちゃんが研修生で日本に行ってたんですね。それで、じゃあお前も卒業したら日本に行きなさいという話があって。


   とはいっても当時は誰でもビザが取れる時代ではないので、ドキドキしながら待つわけですよね。ビザ申請の仲介業者がいて、同時に申し込んだ人が10何人かいるんですけど、だいたい2月、3月頃にビザが出て、4月の学期が始まる前に日本に移動してっていうのが通常の流れなんですが、3月までに結果が出ずダメかなと思っていたら4月に入ってからビザが下りて、しかもビザが下りたのは自分1人だけだったみたいで。

 

中尾:そこから日本でまた1人暮らしが始まるわけですね。

 

張東:そういった意味では、専門学校の4年間は結構大事だったかな。進路もそうだし、自分で生活できていたので、

   すぐに自分のペースで生活を始められましたね。

 

中尾:来て直ぐ大学じゃないですよね?

 

張東:そう、最初は日本語の勉強から。それこそ、専門学校の4年間は、さっき言ったように遊んでばっかりでしたから、それを考えると最初の2年は頑張って勉強してましたね。


   多分ね、人生の中であんなに頑張った時期は無かったかもしれない。それこそトイレに入っている時でも単語を覚えたりして、毎日最低でも単語50個覚えるみたいな。生きていくために稼がなきゃいけない。(日本語を)喋れなきゃ稼げるわけないから。

   

   最初に15万円だけ持って日本に来たんですよ。でも、学校の寮に入って10万5千円払うわけよ。残り4万5千円でしょ。これでどこまで持つかって話だよね。

   お兄ちゃんが日本には何でもあるからっていうから、日本に来た時の荷物は13キロですよ(笑)

 

中尾:最初の頃はアルバイトはどうしたんですか?

 

張東:最初はやっぱり紹介してもらって。といってもピンク系のチラシ配りで、まあまあ稼げて2か月ぐらいやってたんですけど、警察に目を付けられて辞めました。

   その後は寿司屋の洗い場のバイトをやって、月に8万円ぐらいもらって、やっぱ嬉しかったね。

 

   でもやっぱり残らないんですよね。当時は公衆電話から100円入れて国際電話をかけるんですよ。ピピピって鳴るとまた100円入れて。家族と話せるのが嬉しくて。で、そんなことしてたら財布を置きっぱなしで帰ったりして。すぐお金無くすんですよね。

 

   あとはホテルの洗い場もやったことあるし、あとは近かった訳でもないのに何故か豊洲のセブンイレブンで働いたり。そこがセブンイレブンの1号店だったんですよね。1日の売り上げが大体2百3、 40万円ぐらいですよ。大学に入ってから勉強して分かるけど、(コンビニ)1店舗あたりの売上ってだいたい平均で70万円だから、200何十万となるとスーパーみたいな感じ。多い時は20人ぐらい働いてましたね。

 

   そこのオーナーさんは僕たち留学生が頑張ってるのを支援したいっていう感じだったんで沢山仕事させてもらいました。ただ、日本語学校の時は半日授業で半日休みだから夜勤入ってとか出来たけど、大学に入るとその時間が取れなくなって、辞めました。


   それからはホテルの配膳の仕事ですね。

 

中尾:そこで(第14回ゲストの榎本さんと)出会うわけですよね?

 

張東:うん。たくさん働いて、稼いで、それで仕事終わりにレンタカー借りて、銚子まで行ってデカネタ寿司とか食べたりしてましたね。

 

   だから僕ね、親にも言われるし、嫁にもよく言われますし、先生にも言われるんですけど、「君、他の留学生と違うね。」と。大体みんな中国に帰る時に何百万円か持って帰るみたいですけど、僕は逆でしたね。中国に帰ってからもまだ100万円ぐらい返さなきゃいけないお金が残ってましたね(笑)






●社会人~大連


中尾:どういう流れで大連に帰ることになったんでしたっけ?

 

張東:大学卒業してスーパーに就活するわけですね。で、何店舗か経験してやっていたんですけど、バイトしていたセブンイレブンのオーナーさんから連絡があって、お年寄りが1人でやってる酒屋さんがあるんだけど、年なので畳むと言ってるんだけど、良かったらチェーン店のFCとしてやりませんか?と。

 

   そのオーナーさんも、このチェーン店がお酒1本から配達するというのを見て、これは絶対需要があると。

   もしやるんだったら、お金出すので、好きにやってくれみたいな感じで。

 

   それで2年くらいやってましたかね、ただ、配達中に事故に遭って。結構大変な事故だったので、力仕事とか難しくなってオーナーさんと話して転職することにして。まあ、事故がきっかけで嫁と出会うんですけどね。

 

中尾:あ、そうでしたっけ?

 

張東:うん、ケガで2ヶ月くらい休まざるを得ない状況で、そうしたら大学の先生が仕事もしないし、やること無いんだから大学に来なさい、と。中国から来ている大学院生がいて、就職のこととか話をしてあげてほしいと。それで行ってみたら、その中に嫁がいたんですね。

 

中尾:そこから中国に帰ろうかっていう流れは?

 

張東:嫁と出会う前からだいたい30歳前後で帰ろうかなと考えてたんですね。ただ、帰ってからの恐怖ってあるんですよね。日本で普通に仕事して、生活も出来ていたのに、中国に帰って、仕事があるのかな?とか考えながら過ごしていたら何年も経っちゃうみたいな感じだったんですけど、嫁と出会って、嫁の大学院の卒業のタイミングで帰ろうかと。

 

   ただ、実際は職場で就労ビザの延長手続きをしようとしたら、延長が出来なかったんですよね。

   そこで、30日以内とか帰国の期限を決められて。それからバタバタですね。

   折角良い待遇で採用してもらって引越し費用も会社持ちで11t車と2t車が来て引越しをしたばかりでしたからね。

 

中尾:最初日本に何キロの荷物で来たんでしたっけ?

 

張東:13キロです(笑)

   引越しの半年後に30日以内に帰りなさいと。

   最終的に120キロぐらいですかね、荷物を持って帰りましたね、中国に。

 

中尾:大変でしたね。

 

張東:ただ、どっちかといえば楽しかったね、やっぱり。子どもの頃も親が色々と工夫してくれたお陰で楽しかったし、軍施設の中でみんなで遊べたことも楽しかったし、中学もバスケのことですごい楽しい思い出があるし、専門学校もさっき言ったような感じだし、日本に来て色んな出来事があって、そういった意味ではやっぱり楽しいことって続いてる感じがするよね。

 

   それで中国に帰ったら中尾さんと出会うわけでしょ?会ってから16,7年ぐらい経つけど楽しいことがいっぱい続いてるわけで。

 

   そうそうそう、あのね、今日中尾さんに会って最初に言いたかったけど、なかなかチャンスがなくてね。これ言ったら中尾さんも多分、自慢というか、中尾さんSIBって覚えてます?

 

中尾:シブ?

 

張東:あれ?中尾さんが(名前を)付けたセキュリティの。

 

中尾:Security Incident Buster?


☆SIB:メール誤送信によるセキュリティ事故が多発した為、事故防止策として開発したシステム。


張東:それですよ!

   何回かバージョンアップはしてるけど、でも根本的な部分は、我々が作ったそのものが今でも使われているんですよ。パワーアップしてるけども、一番根本的な部分、チェックする順番はあの時のままなんですよ。もう10年以上使ってます。

 

   会社であんなに長く使われているツールは無いですよ。(案件管理用)メインツールでも他の公式ツールでもこんな長く使われているものは無いですよ。

 

中尾:素晴らしいですね?!

 

張東:もはや誰が作ったか知ってる人があまりいない。

 

中尾:良いですね、(使うのが)当たり前になっていると。

 


ゼロ・セキュリティ事故 365日達成記念
ゼロ・セキュリティ事故 365日達成記念


張東:だから、仕事でも、やっぱりこういうことがあると、楽しいですよね。

 

中尾:張さんはトレーニングを終え、現場に入って直ぐにトップパフォーマーになって、チームリーダーになってスーパーバイザーになってと、傍から見たら、良いキャリアステップだと思うんですけども、本人の中では思い描いて通りなのか、それともギャップがあるのか?

 

張東:あのね、(キャリアを)思い描くっていうことは先ず無かったね。

   もう目の前のこと、中国で仕事することすら、やっぱり当時は考えられなかったでしょう?

   だからあんまりイメージもない、何を目指していいか、何が待っているか全く分からない状態で仕事を始めたので、とにかく頑張るだけ、やるなら頑張ってやるかと。

 

   今でも新人教育とかで言いますよね、僕が何でここに長く居るかというと、やっぱり単純なところが好きなんですよね。要は自分のパフォーマンスさえ良ければ、ちゃんと評価されますよと。他の企業だと、(上司や派閥)誰と仲良くしなきゃいけないとか、考えなきゃいけないことが有ったりするじゃないですか。でも、この会社は自分のパフォーマンスを良くすれば、それだけでもちゃんと評価されますよっていうところが、やっぱり良いなと思ってて、ここまでやってきたんだと。

 

中尾:今の評価の話が繋がるのかもしれないですけど、長く働き続けているモチベーションは他にもありますか?

 

張東:やっぱり自分が一生懸命頑張ってやってることに対して、ちゃんと評価されてるなと実感できるんで。例えば、近くに競合が何社もできて、人をどんどん引き抜かれた時期は会社は危機的な状況に陥ったりしてたじゃないですか?

 

   僕も最初は、家族を養えるための十分の収入が得られないんだったら、ってやっぱり考えるんですよ。でも、何か分からないけど、いい具合に収入の部分を(当時のマネージャーが)調整してくれたりして、そういった意味では、(今の会社は自分に)転職を考えるチャンスもくれなかったのかなと。

 

中尾:(給料を上げてくれないなら他に行きますとか)言われたから仕方なしではなく、ちゃんと成績を評価し、しかるべきタイミングで上げてくれたわけですね。

 

張東:そうです。全体の市場から言えばトップレベルの収入を得ている訳ではないのかもしれないけど、少ないとは思えないので、まあ、そう言った意味では十分かな。僕としては、家族を養って食べたい物が食べられて、子供と遊びに行きたい時に行けるとか、そういう状況を保つことが出来て家族と一緒に過ごす時間をいかに確保できるか、維持できるのかということをもっと大事にしていかなきゃいけない。

 

中尾:先ほどの多くのメンバーを引き抜かれた時期やセキュリティ事故のことだったり、色んな局面で課題があったと思うんですけど、結果乗り越えて、務め続けているじゃないですか?その各課題に対しての向き合い方はどんなスタンスなんですか?

 

張東:そういうのって、そんな深く考えたことはないんで。

   お客様とのトラブルに関してもいつか終わるでしょ。いつなのか分からないかもしれないけど、絶対終わるよ。

   どっかのタイミングで何かしらの形で終わるよ。それに付き合うのが仕事だからさ。

 


お世話になった真丸3兄妹
お世話になった真丸3兄妹

●クロージング


中尾:最後の質問ですが、50歳を迎える歳になり、仕事とプライベートそれぞれでチャレンジしていきたいことを教えてください。

 

張東:チャレンジというか、人生で一番大事な時期かなっていう気もするけど、子供たちの為でもあり、このまま中国にいたままで良いのか。


   選択肢の中には日本に移るという選択肢もあります。お兄ちゃんが今年アメリカに移住するので、英語圏の国も一応選択肢としては入るかなというのがあって。

 

   先ずは何回か、特に上の子を連れて日本で色々と体験してもらって、(日本が)良いって言うなら日本で生活することも考えようかなと。自分があんまり勉強せずにやってきて、改めてね、勉強よりもやっぱ楽しさが大事だなと。子供の時期にやっぱり楽しかったという思い出があった方が良いよなと。


   自分たちが(子どもの頃)楽しかったから、子どもたちにも楽しく過ごしてもらいたいなと思ってて。

 

   子供たちの状況を見ながら決めていかなきゃいけないかもしれません。

   まあ、ここは慎重にやっていきたいな。

 


張さん長男のお祝いに@呼和浩特
張さん長男のお祝いに@呼和浩特

中尾:今回は日本滞在の貴重な時間をインタビューに充てていただき、ありがとうございました。



中尾が出会ってきた方と過ごした時間の中で、どのような影響を受け、自身が形成されてい

るかを知るきっかけにしたいと思い、始めた企画でしたが、今後も定期的に会いたい人に会

いに行き、話を聞いてみたいと思います。


それでは第20回お楽しみに。


ではまた。


                                      (了)



2015年1月離連前
2015年1月離連前

Comments


bottom of page