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【私の会いたい100人:第16回】

nakao3126

「私の会いたい100人」


ただただ私の会いたい人に会いに行って話をするという企画でございます。


絵になるのか、内容のある話になるのか、そんなことはお構いなし


会いたい人に会って、出会った当時、一緒に過ごした当時の話やその後の話、

はたまた今後の話について色々と話を伺っていきたいと思います。


そして今の自分がどういう方々からの影響を受けて形成されているのか、

ということを知る一つのきっかけになればと思っています。


それでは、第16回


お楽しみに



 ということで今回は杜の都 仙台にやって参りまして、「私の会いたい100人」 のインタビューを行いますが、第16回のゲスト


 ホッシーこと 星見 卓哉 さんです。


ホッシーは、「中国」は大連で一緒に球蹴りをしたり夜ご一緒したりと多くの時間を共に過ごしてくれた仲間で、その堅実さはプレーだけに留まらず、旅行先でも事前準備の周到さやナビゲーションの正確さなどで驚かされることの連続、そんな有無を言わさぬ安心感で皆から頼りにされていた、


本日のお客様 星見 卓哉 さんです。



ホッシーは大連で約1年間と、一緒に過ごした期間は比較的短かったので、今回は滅多にない1on1なので色々と伺いたいと思います。



<オープニング>

中尾:先ず、「卓哉」という名前の由来は?


星見:「卓哉」の「卓」が卓球の「卓」なんですけど、卓越とか、優れたっていうので、親が文字数と合わせて考えて名前をつけたっていうのは聞いたことがあります。


中尾:何年生まれ?


星見:1981年。


中尾:43歳の年だね。生まれは仙台?


星見:東京都とか関東の人には生まれは仙台って言うんですけど、宮城県の南の方に亘理町っていう町が海沿いの福島の県境にあって、東北の湘南っていうちょっと温暖なとこなんですけど、そこの出身です。。


中尾:そうなんだ?! 実家は今もそこに?


星見:やっぱり東日本大震災があって、住んでるところの地盤の問題で建て直しが必要という状況になったりして今は仙台に住んでいます。

   海も山もある町なんですけど、山側に住んでいて、通学路も田んぼだったり桑畑があるところを行くような。


中尾:自然豊かなところで育ったんだね。




<幼少期>


中尾:幼少期というか、物心ついた頃は我々の時代は近くにショッピングセンターがあるとかそういう時代でも当然ない訳だけど、どういう過ごし方、遊び方をしてた?


星見:本当に世界は狭かったと思いますけど、クワガタを捕りに行ったりとか、近くの駄菓子屋さんに行ったり、友達の家に行ったりだったと思いますけど。


   4つ上の兄がいたんで、遊んでもらったりとか、うちの両隣が親戚で同じぐらいの世代のいとこがいたんで行ったり来たりしたり、自宅の裏におじいちゃん、おばあちゃんの持ってた広い土地があったので、そこで遊んだりとか。


中尾:おお、すごいね?!

   勝手に真面目で大人しい子供だったのかなみたいなイメージがあるんだけど、実際はどうだった?


星見:やっぱり大人しかったと思います。ただ、家の中で遊ぶというよりは日が暮れるまで遊んでっていうことが多かったんじゃないかな。


中尾:小学校は家からどれくらいのところにあった?


星見:歩いて10分とか。


中尾:小学校の時はどんな子供だった?


星見:まあ、引っ込み思案だったと思う。

   小3の秋ぐらいにサッカー始めたんですけど、田舎の小学校なんで40人1クラスしかなくて、男は15人くらいだったと思いますけど、

   サッカーが盛んで、そのうちの9割ぐらいがサッカーやってて。

   だから、小学校に行けば放課後は皆で球決ってるみたいな、完全にサッカー文化の学校。

   野球もチームはあったんですけど、2人ぐらい。それ以外は皆サッカー。


中尾:スゴイね?!それは、民間のいわゆるクラブチームに入ってっていう感じ?


星見:亘理ってサッカーが盛んなエリアで、元々あった少年団は全日本少年サッカー大会全国大会に4回出場していたり、選手やJ1チームの社長や監督も輩出していて、兄もその少年団に入っていて。その後、地元にも少年団ができたので、自分は新しい方に入って。


中尾:そうなんだ。そうすると基本的には同じ学校の子たちだけ?


星見:そうです。


中尾:成績はどうだった?


星見:最初の頃は全然だったと思いますけど、私が小5、小6になる頃には、元々あった少年団よりも強くなってそのエリアではNo.1でした。


中尾:サッカー以外はどういう過ごし方をしてた?


星見:あとはスイミング。


中尾:他に習い事とかは?


星見:してないですね。


中尾:そうなんだ。自分としてはサッカーがあれば良いみたいな?


星見:そうですね。親からも別にあれやれ、これやれも特になく。

   水泳も自発的っていうよりは、隣近所に一つ下のいとこがいて、だいたいセットで行動することが多くて、だからスイミングも一緒に行こうと。


中尾:子供の面倒見るのも大変だから、そうなるよね。


星見:あとはたまに友だちの家に行ってゲームやるとか。


中尾:ファミコン世代だもんね。


星見:ただ、ゲームもやりますけど、そんな上手じゃないから、なんかハマるイメージがあんまりなくて。

   どちらかというとロープレとかあんまりやらないですけど。ドラクエ出たらすぐ買うとか、そういう欲求は無いっていう。


中尾:家には誰かしらいた?


星見:母親か、居なかったら隣のおばちゃんの家に行って夕方まで過ごすとか。


中尾:親戚が周りに集まってるとお互い安心だよね。

   小学校時代とか、小さい頃の親に対する印象とかどういう存在だったかというのは?


星見:まあ、本当に暖かく見守ってもらってみたいな感じですよね。


中尾:ガミガミ言われたことは?


星見:多分ほぼほぼ無いような感じがしますね。自分自身多分利口だったと思う。


中尾:やるべきことをやってるって?


星見:昔は今みたいに詰め込みみたいなのも無かったので。

   サッカー頑張ってね、とか、試合の応援に来てくれてとか。


中尾:そっかそっか。今、お子さんは?


星見:小6と高1ですね。


中尾:自分が子どもの頃の親子関係と自分が親に立っての子供との関係とで、距離感とか立ち位置とか当時思ってた親に対するものと今とで違いとか受け継いでるものとかある?


星見:難しいですけど、女の子2人だっていうのもあって、大きくなってくるとある程度距離を取らないといけないっていうのも今はあるし、多分子供たちもそういう意識があるので。

   うちの子たちはうまく親を使おうとする子たちなんで。送り迎えとか。見返りのないものというか、そこは何となく分かってんのかなっていう。

   親的にはやっぱり親の時間を使ってっていうのがあるから、子供中心に回っていて、学校の送り迎えをするするにしても、例えば、子供自身が何か前向きなことをやっていて、これをやらないといけないから(車で)送ってね、とかっていうのがあればいいんですけど、大体しわ寄せというか、朝起きれず、皿洗いもそのままで、時間が無いから使えるものは使わないとみたいな感じで、親は使えるもの扱い。


中尾:親がやってくれるだろうっていう安心感があるんだろうね。


星見:逆に言うと、自立させられてないみたいなところがあって。


中尾:それこそ自分の小学生時代はやるべきことやってたというのがあると思うんで、それを考えると、おいおい、もうちょっとちゃんとやれよみたいな?


星見:色々と…




<学生時代>


中尾:続いて中学時代だけど、中学は?


星見:私立の中学校に行ったんですね。


中尾:自分の場合は神奈川だけど、一クラスで私立に行ったのは5,6人とかだったと思うけど。


星見:男子では私1人だけでした。


中尾:そんな中、どういう流れで(私立に)行くことに?


星見:隣の家のいとこが塾行くみたいな話になって、せっかくだから一緒に行く?みたいに。

   行くことになった学校はサッカーが伝統的に強い学校だったから憧れもあったので。


中尾:じゃ、中学入って、当然サッカー部に入ったんだよね?


星見:はい。当時もそこそこ強いですけど、今はさらに強くなってて、ほぼ県内では敵がない。

   当時からですが、高校までの6年で育てるっていう哲学があって、高校の場合は、高校から入ってくるクラブ上がりの子と中学上がりの子たちを融合させてっていうのを昔からやっていて。


中尾:長い目で育てようっていう感じだね。そうすると、ほぼイコール中高はそこで過ごすっていうのがある程度見えてる状態だと思うんだけど、中学時代に将来どういう仕事に就きたいなみたいなそういったイメージは?


星見:全くないですね。サッカー関係やりたいとかも、ちょっと現実離れしちゃう感じで。

すごい上手な先輩とか見て、サッカー選手ってないかなと思いながらも、でも好きだからしばらくは続けていこうみたいな。

   自分の中では高校だけじゃなく、大学まで(エスカレーターで)行くと思っていて、10年間ぐらいは同じ感じかなって。


中尾:高校に上がる時は内申などで線引きが一応有ってという感じ?


星見:まあ、無いに等しい。


中尾:高校入ってからもサッカーを続けていると思うけど、勉強も高いレベルに推移していったと思うんだけど、

   そこらへんのバランスの取り方とか、力のかけ方とかで苦労したことは?


星見:電車通学で家に帰るのが20時とか21時とかだったと思うので、短時間で集中してやったり、テスト前とか短期集中でやったり。

   時間が無い中でどう工夫して詰め込むかみたいな、要領よくやることを意識していました。

   2年生からは国公立受験コースに行きながらサッカーやってて。


中尾:中学・高校と公立だった自分からすると、とても興味があるんだけど、いわゆる進学校で、ある程度の(勉学の)レベルでやる、或いはそのレベルについていくということが大変だったのか、


   もしくは、入学してしまったら、(高いレベルの)環境が当たり前になって、自ずとついていけるものなのか、そのあたりはどう?


星見:私の場合は、当時倍率も高くなかなか入れないと言われている学校だったので、成績も下の方なんだろうと思っていたら、中1の最初のテストで全体の15番ぐらいだったんですよ。

   それがあったので、そこを維持をするのがスタートになったっていう。やれば出来るみたいな自信にもなって。

   まあ、親は何も期待しなくて本当に。


中尾:言わないんだ?素敵な親御さんだね。

   学級委員とか学校の活動とか部活外のことってやったりした?


星見:いえ、小学校の時は児童会長をやったりしましたけど、それ以降は特に。

   今は内申の為に積極的にやる学生もいるみたいですけど、部活で時間無かったし。

   そんな中で、中学、高校と無遅刻、無欠席、無欠課でしたね。


中尾:自分も休んではないかな。

   何かイベント含めて特に思い出すことはある?


星見:出来事というか、部活の遠征だったり合宿ですね。

   大学の合宿所があるんですけど、夏休みとかはそこに何週間もいたりとか。

   もう朝から晩までみっちり。

 

中尾:夏休みもろくに家にいる時間なんてない感じだね。


星見:たまに荷物を取りに帰るくらいで。

   中学校の時に新潟遠征があって、中1の年に高等部がインターハイに出てて、それを見に行った時に相手チームに中田英寿がいたと思う。見ていて、これはすごいなと思って。


中尾:じゃあ本当に力を入れてた学校なんだね。

   そうすると、対峙した時の感覚として、(全国大会常連の)仙台育英とやるってなっても別に気後れすることっていうのは?


星見:無いですね。無いし、(自分の代も)決勝でも負ける気しなかったんで。ただ、フォーメーション変更などもあって0-1で負けて。


中尾:もう1歩だったんだね。毎年ベスト4当たり前という感覚でしょ?(はい)伝統の力だね。

   その伝統校でサッカーに打ち込み、一方で大学進学も見据えてってなると思うんだけど、進学はどのような流れに?

 

星見:高2の時に国公立コースを選択していて成績も悪くなかったんですけど、(高3の)冬まで仲間たちとサッカーやりたいなっていうのが正直あって、私立受験コースに変えたんですね。

   そうしたら、コースで(成績が)1番で、生活面とか部活も頑張ってて、学校も休まず、模範的というか、そうしたら、東京の大学の推薦枠があるけどって言われて。それで親に相談して。

   自分も親も東京に行くって想像してなくて最初は(東京に)行くつもりはありませんみたいな感じで、一旦持ち帰らせてもらいますって言って、家で話し合いをすることになって。

   そうしたら、親戚のおじさんから、なかなか行けるような学校じゃないって押してもらって。


中尾:それまでは別に希望していなかったんだ?


星見:全然。


中尾:いざ卒業して東京ですってなった時に部屋探しとかは?


星見:都心だと高いからってことで少し離れたところで探していた時に、(高校の)2個上の先輩が戸田に住んでることが分かって、先輩に電話して、部屋見せてくださいって言って。実はその先輩は職場も一緒で。


中尾:ええ?!すごい縁が続いてるね。

   確かに先輩がいたら、親御さんも一つの安心材料になるよね。


星見:バイトも同じで。


中尾:一般的に日本の大学生って、大学イコール遊ぶ四年間、みたいなイメージがあるけどどうだった?


星見:まあ、勉強熱があるかっていったら、そこまではなかったかもしれないですけど、一般で入ってきた人たちとの差を感じたりとか、色々と感じながら。

   あとはバイトやったり、サッカーサークルに入ってたんですけど、大会で日本一になって副賞でハワイに行ったり。



2014.12 台湾旅行

<就職~大連>


中尾:色々とやっているとあっという間に時間が過ぎちゃうと思うんだけど、就職を考え始めた時にどういうふうに就職先を絞っていったの?

 

星見:そもそも田舎から出て行ったことで、親戚はじめ地元の方にすごい感謝する機会があって、地元に貢献したいよねっていうのがあって、それと大学やインターン先で金融の役割とかを学び、金融業界かなと。

   さらに、地元に帰れればベストだよねっていう。とはいえ就職氷河期だったので、色々と受けたりはしていましたけど。


中尾:ホッシーのレベルでも厳しいって思ってたんだ?


星見:危機感を持ちながらやらないと難しいだろうと。

   結果、第一志望のところに入れて。


中尾:素晴らしいね! じゃ、卒業後に地元に戻り就職してと。

   最初のお給料って何に使ったとかって覚えてる?


星見:あんまり覚えていなくて、多分親に美味しいものを食べさせたとかっていうのはあるかなと思うんですけど、何か自分のを買ったとか、そういう記憶がなくて。

   なんか研修期間中とか、ふわっとしてる時に給料入ってくるじゃないですか?

働いた感覚もまだ無い中でもらって申し訳ないみたいな。


中尾:確かにそうかも。

   入社後は数年おきに配置転換をしながらで結構大変な時期もあったと思うけど。


星見:そうですね、震災なんかもありましたし。


中尾:震災によって、求められる役割とか、やんなきゃなみたいなことっていうのは、震災前後で何か変わったことってあるもの?


星見:命の大切さと使命感を強く感じました。命があれば何でも出来るというお客様がいっぱいいて、そういう人に元気づけられてるっていうのはありましたね。


中尾:その後、大連に行くことになるけど、それはどういう流れでホッシーが行くことになったの?


星見:入社4年目の時に上海に語学留学をさせてもらっていて、会社としてはそういう中国語人材のストックがあり、その中で次に行くのはあなただっていう話になり。


中尾:役割は?


星見:県から派遣される所長の語学サポートだったりビジネスに関するサポートだったり。

   あと、大きくは県に誘客するっていう。観光でも仕事でも。

   今みたいにインバウンドの流れが地方までなかった時代なんで、地域のPRをして飛行機の便が出来るように中国の航空会社に行ったりして。

   地元の温泉旅館の方を連れて行って商談やったりとか。


中尾:面白いね?!そんな大変な役割・責務がある中でサッカーの活動にも参加して。

大連に居たのは3年だっけ?


星見:2年です。


中尾:サッカーも当然なんだけど、すごく印象に残ってるのが大会でソウルに行った時に、初日に地下鉄に乗ってご飯屋さん行ったでしょ?

   その時に、ホッシーも初めてのはずなのに、平然と「次こっちの出口です」みたいな感じでナビしてくれて、あっという間に店に着いたのがすごく印象的というかビックリで。


   ああいう準備だったり、周到さというのは、それこそちっちゃい頃から得意だったの?


星見:そんな便利な社会じゃなかったんで、やっぱ事前に調べないと、そこに辿り着けないっていうのが昔の感覚としてあったのかもしれないですけど。

   仕事柄、人をアテンドするとか、そういう時に失礼がないようにとか。


中尾:あれ本当に素晴らしいと思うんだよな。

   まあ、本人にしたら別に嬉しくないかもしれないけど、すごく感心したというか。

   あれはね、すごい武器だと思う。


   道順案内に限らず、ああいうことが出来る方ならきっと仕事でも段取りをしっかりやってる方だろうって他の方は安心できるんじゃないかなって。


星見:そうですかね??


中尾:大連から2年で帰任するにあたって、達成感とか、一定のここまでやったみたいな、そういった感覚は?


星見:初めての部下(中国人)もできましたし、色んな方面とのコネクションというか、人との繋がりが生まれたのが一番良かったなっていうのがあって。


   通常業務では接点がないような方々とも知り合えましたし。自分にとっては本当に意味のある2年間だったなって。




<帰任~現在>


中尾:帰任後はまたハードだったと思うんだけど?


星見:日本での通常業務と比べたら、大連時代は負荷が少なかったので、その分だと思って仕方ないかなと。


中尾:ちょっと幼稚な質問になっちゃうけど、帰任後の数年間は本当にハードだったと思うのね。

   その環境下で働き続けるモチベーションっていうのは、どういうところにあったのかな?


星見:やっぱり、お客さんの為にとかっていうのもありますし、居なかった間のシステム変更に慣れるまでの時間というかリハビリという感覚もありましたし、

   立場がちょっと上になってとかっていうのもあったりする中で、なんだかんだ時間が解決してくれるかなっていうのはあって。


   それで慣れてきて、仲間とコミュニケーションも良くなり、切磋琢磨してたっていうのはあります。

   仕事遅くまでやって、そこから飲み行ったりとか社内のコミュニケーションもそこで図れていたので、ハードでも楽しく働けていました。


   そこで4年程過ごしてから、さらに大変なセクションに来たんですけど、これも自分がやるしかないなと。で、3年ぐらいしたら転勤の話があって。


中尾:また単身赴任だったんでしょう?


星見:自分一人で行くっていうのはほぼ話し合いもないくらいの感じで。


中尾:これまでとは役割も違う?


星見:その拠点のナンバー2として、マネジメントや支店経営をどうすればいいかみたいなのを考え続ける1年半でしたね。どうやったら部下のモチベーションが上がるかとか。


   あとはコロナ禍中は人が一気に3人抜けたりとか、4人抜けたりとかっていう中で、それをどうやって回していくかとか、

   個々の相互補完ができるように、どうやってスキルアップさせるかとか。


中尾:そこでの1年半ぐらいの赴任期間っていうのは、ある程度想定済みの期間だったの?


星見:想定外ですね。3年くらいはという想定でしたし、一周やって、よし、これからトライアンドエラーじゃないけど、いろいろ試しながらという段階に移行するタイミングで呼び戻された感じですね。


中尾:元いた部署に?(はい)じゃあまたハードな時間の過ごし方を?


星見:そうですね。ただ、役割として、社内の人的資源を有効にするための施策だったりバランスだったりを色々と考えるようにことで。


中尾:とても大切な役割だし、旬なセクションに今いるわけだね。


星見:経営サイドからの要望も分かるし、現場の現実も見てきているので両面を見てきてるんで、悩ましいというかどっちも気持ちが分かる部分あるし、みんな頑張ってるので。


   いかに効率化して、早くみんな帰らせるようにできるか。手を動かせるように頭を使わないといけないんだろうなっていう。


中尾:そうか、もう組織運営にどっぷりだね。




<クロージング>


中尾:最後クロージングに入りますけれども、40代半ばに差し掛かって、これから50代が見えてくる年代ですが、今後40代、あるいは50代でやりたいこと、またはチャレンジしたいことを仕事の面、プライベートの面それぞれで教えていただきたいんですけど。


星見:そうですね。また海外に行きたいというのはありますね。駐在なのか、まあリタイア後か。

   駐在っていう可能性もありますけど、プライベートでも行ける余裕を持ちたいですし。

   これまでも海外に出ることでリフレッシュしたり、物事を見て刺激を受けたりっていうのがあったので。

   自分の市場価値をどう高めていけるか。


中尾:プライベートは?


星見:本当に娘たちが手を離れるというか、本当に無事に働けるまで見届けるっていうところ。

   それまでは、家族、特に子供のことに対してちょっと力を注いでっていう感じですね。


中尾:お父さんの先輩なので、また色々と教えてもらいたいと思います。



ということで、今後も定期的に会いたい人に会いに行き、話を聞いてみたいと思います。


それでは第17回お楽しみに。


ではまた。



                                      (了)




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