「私の会いたい100人」
ただただ私の会いたい人に会いに行って話をするという企画でございます。
絵になるのか、内容のある話になるのか、そんなことはお構いなし
会いたい人に会って、出会った当時、一緒に過ごした当時の話やその後の話、
はたまた今後の話について色々と話を伺っていきたいと思います。
そして今の自分がどういう方々からの影響を受けて形成されているのか、
ということを知る一つのきっかけになればと思っています。
それでは、第14回
お楽しみに

「私の会いたい100人」第14回のゲスト
アッシーこと 芦澤 雅之 さんです。
アッシーは、「中国」は大連で一緒に球蹴りをしたり夜ご一緒したりと多くの時間を共に過ごしてくれた仲間で、プレーだけでなく持ち前の人懐っこさと行動力、面倒見の良さで年上、年下問わず皆から頼りにされていた、自他ともに認める「人が好き芸人」
本日のお客様 芦澤 雅之 さんです。

ということで今回はアッシーの駐在先であるアメリカはテキサス州ダラスにお邪魔してインタビューをさせていただいております。
大連で長い期間一緒に過ごし、実家も近所だったりと色々と繋がりを感じていますが、今回は滅多にない1on1なので色々と伺いたいと思います。 《幼少期》
中尾:まず最初に名前の由来は?
芦澤:全然知らない。多分親父につけたかった名前。
おじいちゃん、おばあちゃんが親父につけたかったけど、おじいちゃんの会社の偉い
人から名前をいただいてしまったんで、その時つけたかった名前を孫につけたみたい
な感じじゃないかな。分かんないけど…
中尾:何年生まれだっけ?
芦澤:1982年でもう42歳になる歳。
中尾:生まれは神奈川?
芦澤:生まれは東京で3歳ぐらいに横浜に引っ越して。
中尾:小学生の時はどんな感じの子だった?
芦澤:小1からサッカーばっかやってた。
中尾:始めたきっかけは?
芦澤:野球かサッカーが当時の選択肢で親の勧めもあったと思うけど、自分でサッカーを選
んだんだと思う。
中尾:小学校の時はどんなこと流行ってた?
芦澤:ビックリマンとかドラゴンボールとかガン消し。
中尾:放課後はどういう過ごし方が多かった?
芦澤:本当にサッカー中心。クラブチームの練習がある日はクラブチームだし、無い日も学
校のサッカー好きを集めてずっとグラウンドでサッカーしてた。
中尾:本当に好きだったんだ?!サッカー以外の習い事とかは?
芦澤:ピアノはちょっとやった。ちょっとやってたけど、やらされてただけでイヤですぐ辞
めた。行ったフリして行かなかったりして親もさすがにもうやらせても無理だなって
諦めたと思います。習字も一瞬やらされかけたけど、それも回避して。
中尾:その頃の親はどういう存在だった?
芦澤:どっちかというと、自由に色々やりたいことやらせてもらえてる感じだったと思う。
あまりに行き過ぎそうになると「ちょっと道外れるんじゃないぞ」という感じで制止
されたけど、そうじゃない限りは基本的にはチャレンジさせてくれたし。
小学校1年ぐらいの時は結構親がしっかり勉強見ててくれたけど、その頃に親が若干
体を壊したみたいで、がっつり勉強を見れなくなってから途端に俺は自由になり、
1、2年の時ってABCみたいな3段階評価で1個だけBであとは全部Aだったけど、それ
が3年生ぐらいになって、親が教えなくなった途端に何もしないから、体育と音楽と
図工だけAであとはBみたいになって、5、6年になるとたまにCとかついてきて(笑)
中尾:自分が子供だった時の親子関係と比べて、今親になっての親子関係で違いだったり感
じることとかは?
芦澤:うちの方がだいぶフレンドリーだと思う。子どもたちと遊ぶし色んなことをしゃべる
し。自分が子どもの頃はサッカー以外は一緒に遊ぶってことなかったし、低学年の時
だけサッカーを親父と一緒にサッカーをやるってことはあったけど、それ以外はもう
一緒に遊んだりもなかったし。
友達と遊ぶ方が全然楽しいし、喋ってる方がいいから(親と)仲悪いわけじゃないけ
どあんま。
中尾:(親として)何かしら心がけてることはある?
芦澤:特には無いかな。まあ、色んなものを経験させたいねっていう漠然としたものがある
ので、うん、あと何でもチャレンジさせたいねっていうところかな。
あと、物事の本質を考えるような質問をなるべくするみたいなのはあるかもしれない
な。「何で、これが必要なんだっけ?」とか例えばシンプルな話で勉強やりなさいっ
ていうのは、「やりなさい」じゃなくて、「こういうメリットあるよね?」とか、あ
とは考え方をなるべく大事に育てたいみたいな感じかな。
中尾:小学校時代の自分のキャラクターを考えた時に、今の自分のキャラクターと共通する
部分とか、反対にだいぶ変わったなとか思うことはある?
芦澤:基本的には変わってない気がするな。
でも小学校の時はちょっと内弁慶だったかもしれない。同じ学校とか、確立されたコ
ミュニティの中では結構目立つ方だったりしてたんだけど、違うフィールドに行くと
途端に喋れなくなったりとか。
打ち解けるまでにちょっと心を開くのに時間が多少かかった気がする。今は全くない
からさ。(意外だね)あとは緊張しい。めっちゃ緊張する。まあそれは今でも変わっ
てないけど。

《学生時代》
中尾:中学に進んで、そのあたりのキャラクターの変化は?
芦澤:中学まで変わんなかったかな。
中尾:中学もサッカー部だと思うけど、結構強かった?
芦澤:うん、まあ、県大会は間違いなく出るくらい。ベスト8とか16とかかな。
中尾:中学時代はサッカーが中心だったと思うけど、その頃は将来どういう仕事に就くイメージを持ってた?
芦澤:やんちゃでサッカーやってただけだったから、あんま将来のこととか真面目に考えて
なかった。高校ぐらいまでそうだね。ただ楽しく。だからサッカー選手っていう道も
含めて、ぼんやりというか。まあサッカー選手の道はもう無かったかな。小学校の時
はちょっと思ったことあるけど、中高とかではもうそんなの無理だって。
今になって例えば本田(圭佑)の話とか色々な話を聞くと、努力の仕方次第ではいろ
んな道があったのかなと思うことはあるけど、自分より明らかに上手い同年代の選手
とか見て、あ、自分この道はないなっていうのははっきり思ってたけどね。
中尾:そうすると中学から高校っていうのはどういう風に進路を決めてた?
芦澤:高校は(サッカー)推薦。
中尾:高校での成績は?
芦澤:(神奈川)県でベスト4かな?だいたい桐蔭とか桐光とかと当たって終わる。そこは
高い壁なんだね。やっぱり自分より上手いなと思うもん。県選抜くらいだけど、やっ
ぱりこれはちょっと適わないなって人がやっぱり出てくる。そんな上手くない人も中
にはいるけど。
中尾:ちなみに学業はどうだった?
芦澤:本当に勉強しなかった。一応サッカーで大学推薦決まってたんで、評定平均を取る為
に色んなやり取りがあったけど。結局、学校側の不祥事で推薦は無くなったけど。
中学の時にスカウトに来て、大学までちゃんと面倒見るんでうちの高校に来てくださ
いってうちの親に説明をして、親もそうやって言ってもらえるんだったらみたいな感
じでその学校に進んでたから、さすがに母ちゃんはキレてた。親父はそしたら今度は
勉強含め、自分で道を切り拓けばいいじゃんっていうぐらいの感じで。
中尾:約束が守られなかったわけだからね。
芦澤:それまで何も勉強してなくて、アルファベットの順番も分かんないぐらいのレベルで
クソ頭悪かったから、そっから勉強し始めたんだよね。3年の頭ぐらいからかな?大
学行くって切り替えたから、家庭教師つけてめっちゃ勉強した。
中尾:大学でも部活は入った?
芦澤:入ってない。ただ、その時はコーチやってた。小学生と高校。小学校はバイト先で一
緒だった人が自分の息子が入っているチームが弱いからコーチやってくださいって言
われて。それで見に行って、ちょっとだけ教えてみたら、すごい反応が良くて面白い
かもなって思って。それから結構熱心に教えてた。
本当に全然勝てないチームだったけど、最終的には市で1位、2位を争うぐらいまでな
った。
中尾:コーチ経験も無く、頼まれたから始めた中で、そこまで(子どもたちのパフォーマン
スを)引き上げることが出来たのはどういう要因、理由からだと思う?
芦澤:多分だけど、俺が入って、その子たちがめっちゃサッカー好きになったの。楽しむよ
うになったのはでかいかね一番。
いつも負けてるけど、ヘラヘラしてる感じだったの、お遊びチームだったから。それ
が本気で練習もするようになったし、結構、自分たちで戦術の話とかもするようにな
ったし。そうすると、やっぱ負けるの悔しいとかなっていったり。
あとはどうやったら上手くなるとか戦術的な話だけじゃなくて、個人技のスキルの伸
ばし方とか、そういうのも教えていく中で、やっぱり自分で成長を実感できることに
対して楽しかったっていうのもあるんだと思います。そういうのが相まってかな。
で、どんどん皆が夢中になっていったというか。
中尾:素晴らしいね!それ何年ぐらいやってたの?
芦澤:大学1年から始めたから3年ぐらいかな。
中尾:他のバイト含め過ごす中で大学4年生になる頃には就職活動が始まると思うけど、ど
うやって進路を決めていったの?
芦澤:大学までふざけてるやつだったので、そんなに真面目に進路もどうしたりとかってい
うのはなくて、まあ、メーカーかなみたいなぐらいな感じで。営業職の方が自分のス
キルからしたら良いかなっていうか。業界を見た時に半導体って良い分野で、まだま
だこれにとって変わられる技術ってないだろうなぐらいの感じで。だから半導体だっ
たら食いっぱぐれは無いかなと。給与が高くて安定してるところみたいなイメージ
で。
中尾:当時そうやって先をちゃんと見て考えて絞ってたんだね。

《社会人生活(~大連)》
中尾:社会人になって最初から(福島県)いわき市?
芦澤:研修が終わって最初の赴任先がいわき。
中尾:いわきに赴任して何年かしてから大連に長期出張という感じ?
芦澤:そうそう3年目くらいかな。中国の大連に営業所を出したんだけど、そこのオペレー
ションがまだしっかり確立されてなくて。結構トラブルがあったからちょっとサポー
トに来てくれないかみたいな感じになって。それで3か月。
中尾:3か月の出張が終わり、一旦日本に戻り、暫くして(大連に)正式に駐在になると思
うんだけど、そこの流れってどういう感じだった?
芦澤:出張で3ヶ月いて、自分なりに自立したオペレーションができる土台づくりみたいな
のに少し貢献をしたっていうのがあって、これだったら(大連に)来てもらった方が
いいよね、みたいな感じになって。その時は社長一人だけが日本人の駐在だったか
ら、社長だけじゃなくて、やっぱり(現場を)見れる人が欲しいねってことで。
中尾:それまで旅行含め、海外には行ってたの?
芦澤:当時は全然海外に興味なかった。そもそも中国も正直に言えば勝手にあんまり良い印
象を持ってなかった。
だから最初は「ええ中国行くの?」みたいな感じで全く希望してなかったから、その
時の上司から業務命令って言われて分かりましたって感じで。でも3ヶ月行ったら
「あれっ?」て。
日本にいたら分からなかったこともいっぱいあるし、色んな経験できるし、これって
面白いかなって。だから正式駐在って話をもらった時は「まあまあ、これもいいチャ
ンスかな」っていうふうに捉えてたかな。
中尾:トータル駐在期間はどれくらいだっけ?
芦澤:多分5年弱くらい。4年半くらい。
中尾:(一緒に参加していたサッカーチームだと)年上年下関係なく頼られる感じだったと
思うんだけど、会社だったり、地元とかでもそんな感じ?
芦澤:まあそんな感じだった。キャラは変わってないと思う。
中尾:駐在5年目くらいでそろそろ帰るという話になったのは、あらかじめ予定してた期間
を迎えたからっていう感じなのか、何かしらの流れがあって、そろそろだねっていう
ふうになっていたのか。
芦澤:期間を迎えたからっていう感じかな。だいたい駐在(期間は)3年から5年って言われ
てて、4年くらいが平均的な期間なんで、自分もそろそろ良いかっていう感じだった
から。
(大連生活は)面白かったんだけど新しいサプライズもなく。オペレーションも回る
ようになったし、これ以上いても別にすごい経験がある訳でもないから次の段階に
(進むときが)来たかなって思ってたところで、そろそろ(帰任)どう?っていう話
になり。
中尾:駐在赴任時に会社から求められている役割とか、自分で期待してるものあったとし
て、帰任時に目的達成とか、どういう感覚、感触だったのか?
芦澤:目的は達成。しっかりオペレーションも回るようになったし。日本(の部署)が主導
して取るグローバルビジネスは一杯あるけど、それ以外に中国のお客さんのビジネス
をしっかり中国で取ること。これに関しては、ローカルで一番になるくらいお仕事は
いただけてたんで。お客様にも恵まれていたけど。
中尾:駐在期間で、特に影響を受けた方だったり、自分に本当に力になったなとか身になっ
たなという影響を受けた方がいれば。
芦澤:サッカーチームに属したことで、色んな会社の人たちの色んな人の価値観に触れる機
会が一杯あって、なんだかんだで自分の視野を広げてくれたのかなっていう気がする
な。
後々日本に帰ってから、今やってる仕事だけじゃなくて、視野を広げた時に、自分の
可能性をもうちょっと広げるために、例えば語学の勉強をもっとしようとか、こうい
うところをもうちょっと改善しなきゃとか、いろんなことに繋がってる気がするの
で、誰っていうかその環境、関わった全ての人かな。

《帰任→転職→アメリカ転勤》
中尾:駐在前と後で何か変わったことは?
芦澤:個人的には学習習慣がついた。中国にいた時は途中からだけど中国を勉強し始めて、
若いうちに海外出てるねっていうだけでも市場価値だと思うんですけど、例えば(勉
強した結果として)HSK(中国語検定)何級と書ければ、それだけ頑張ってきてると
分かるから、その市場価値みたいなのを意識し始めたのが日本に帰ってからかな。
あとは勉強する習慣がついたことで、何も勉強しないとか、何も頑張ってない自分に
負い目というか、危機感を感じるようになったね。
そこに当時の会社の変化というか、ガタガタしてきた中で、自分の価値って何だった
っけ?とか自分の可能性とかいろんなことを考えるきっかけになったのもあって、何
もしなきゃダメだなみたいなふうに考えるようになって、例えば英語が全く出来なか
ったからちょっと勉強しようかなとか、そういうふうになってた気がする。
中尾:そんな中で転職を考えるようになっていくと思うんだけど、転職先を決める上での優
先事項ってどんなものがあった?
芦澤:優先事項は何だっただろうな。
(自身の)成長機会があるかどうかみたいなこととか、あとは英語もろくにできなか
ったくせに、いつかはアメリカや欧州でお客さんと対峙してみたいとか。
(知識・経験としては)自動車関係の部品の半導体については分かるから、その知識
も活かせてっていうところかな。
海外への挑戦機会が有るか無いかっていうのは結構大きかったかな。
中尾:今の会社に入るにあたり、日本国内での引越が伴ったけど、家族はどうだった?
芦澤:まあ、子供たちは中国も経験してるし、カミさんも前向きに捉えてくれたし。
一般的に見て、「ああ、ステップアップだね」っていう分かりやすい転職だったから
家族内のコミュニケーションも別にそんな問題なく、「ああ、分かった」って感じ。
中尾:転職して最初の時期が本当に大変だったって言っていたけど。
芦澤:そう、大変だった。
中尾:仕事内容なのか、社内のコミュニケーションなのか、対顧客での話なのか、どういっ
た点が特に大変だった?
芦澤:前の会社で10年くらい勤め、中国駐在時の成績含め、周りからも結構あいつは営業マ
ンとして優秀だみたいな感じで言われてるのも、自分も分かっていたけど新しい会社
に入ると初めは本当にゼロスタートぐらいの感じで。
配属されて、当時は卓上電話がいっぱいあってその電話が鳴るわけね。
今まではそれに普通に出ていたのが、社内の人も部署も分からないし、お客さんのこ
とも分からないから電話を取れない。周りの人たちが出てるから俺がとってあげなく
ちゃいけないのに、外線か内線かも分からないからなかなか出れなくて。
あとは、自分が入ったポジションが社内でも大変だと思われていたようで、あそこの
お客さん担当は一番大変だと、社内募集かけても誰もやりたがらないから、もうしょ
うがない社外に募集を出そうって話になり、これに食いついたっていう話で。
結局、後から自分のやり方でやったら全然大変じゃなかったんだけど、前任のやり方
を引き継ごうとしていたときはちょっと、何と言うか俺とアプローチが真逆の人だっ
たから。
でも、たった1、2ヶ月しか引継ぎ期間が無いのに、その人を否定したら何も引き継げ
ないから、先ず1ヶ月全部受け入れたんだけど、そうすると多分、自分は感受性が豊
かなんだと思うけど、負のものをかなり吸収しちゃっていたみたいで、それが今思い
出すと一番嫌だった。
こんなことしてたら、それは(お客さんと)揉めるよと思いながら、一旦は全部負の
ものを受け入れて、こういうふうにやってくださいって言われたことをそのまま実践
して。でも、そうするとやっぱり結局おかしな方向に行くんだよね。
結局は自分のやり方を見つけて、自分のスタイルでやったら、みんな周りもついてき
てくれるし、お客さんともいい関係ができるから、ちょっとここはうち泣くけど、こ
っちは泣いてみたいな感じの話もできるし。そうすると、どんどん信頼関係が出来て
きて。
半年ぐらい経ったときに、「あ、完全に変わったな」っていうふうに思えたかな。楽
になったと感じた。
中尾:それまでが結構タフな時間だったと。
芦澤:そうだね。それから得意先の一番でかいビジネスのリーダーをやってほしいという話
があって、そこぐらいでまた大きな転機があったかな?
それ自体は本当に一担当みたいな人が背負うレベルじゃないんだけど、ちゃんとサポ
ートするからやっていこうみたいな感じでやってくれて。3年ぐらいかけて、そのプ
ロジェクトを受注した。
中尾:そんな長い期間かけてやっていたんだ?
芦澤:おかげで、社内も技術の部長だったり役員だったり巻き込んでのプロジェクトだった
から、自分の名前も社内でどんどん認知されていったし、あと、知識のないところか
らのスタートだったけど、「一生懸命やってるね」って、「芦澤がそう言うんだった
らそっちでやってみようか」という感じで、皆がついてきてくれるようになって。

中尾:その結果を得て、キャリアを選択する中で、今回アメリカ駐在を選んだのはどういう
経緯や考え方から?
芦澤:先ず、そのプロジェクトの活動をやる中で昇格試験をパスして、あとは社内でも業務
をある程度回せるし、社内のキーマンとの関係も作れていたのでそのままでも勿論気
持ちよくやれるし、ある程度うまくやれる状態ではあった。
ただ、中国から帰任する時の話と同じなんだけど、もうコンフォートなゾーンになっ
てしまったから、このままではダメだなと思って、自分が1番足りないけど、1 番伸
ばしたい能力って何だろうって言ったら、語学含むグローバルリーダーシップ。
単純な語学だけじゃなくて、欧米のトレンド、スタイル、考え方を感じて、本当にグ
ローバルにリーダーシップをとれる存在になって、アジアだけじゃなくて、世界のみ
んなを(目的に)向かえるようなリーダーシップを養うみたいな。
それが多分いま1番自分に欠けている能力なんだよね。じゃあ1番辛いチャレンジって
なんだろうって思ったら、アメリカ駐在だなと。
中尾:例えば、一人一人の総合点数があったとして、後輩とかに対してでもいいんだけど、
その人の長所を伸ばして総合点数を増やすのか、または足りてないところを伸ばして
総合点数を増やすのかっていう2つの考え方があったとして、今の話だと、足りてな
いところを強くしていこうっていうやり方、考え方だと思うんだけど、その考え方は
自分の考え方なのか、それとも周りからのアドバイスだったり、考え方などからの影
響があってのことなのか?
芦澤:長所を延ばす方が個人的には良いと思ってる。でも長所が頭打ちになってるなって思
ったから、これ(英語力、英語思考での考え方とか)を解決したら多分長所も伸びる
んだろうなっていう考えで。
中尾:ダラス駐在になり2年経ったけど、大連の駐在と、アメリカの駐在とで何か大きく変
わる点がもしあれば。
芦澤:先ずは経済の中心の国にいることで色んな人や情報に触れられているのは違うかな。
役割としてはどちらもマネージャーとしてなので、コアな部分は変わらないかな。
中尾:中国の時は夜も土日も問わず、アテンドしたり全時間帯が仕事の延長線みたいな印象
があったけど、過ごし方とか、その辺りの違いは?
芦澤:中国の時は飲んでても仕事。中国とか日本もそうだけど、一緒に飲むことでしっかり
(お客さんの)心を掴んでみたいなのはあると思うけど、こっちは(会食も)少ない
ので。ただ、あんまそれは本質じゃないな。
中尾:ちょっと質問を変えて、家族に関することを。
子どもたちは中国を経験して、日本を経験して、今、アメリカでの生活を経験してい
るけど、子供たちの生活環境の変化による懸念点とか心配だなと思う点、或いは反対
に期待する点はどういったのがあるのかなと。
芦澤:心配はあんましてない。期待してるのは、何でも新しいことにチャレンジしてほしい
なって。日本にいるよりも、明らかに色んなものに触れているので、中国もそうだ
し、アメリカもそうだし。
「人生って色んな可能性があるんだ」って視野は絶対広いはず。だからその視野をふ
んだんに生かして、色んなことにチャレンジしてほしい。
中尾:次に夫婦間の関係についてだけど、例えば結婚して間もない時期と子どもが生まれ3
人での生活となり、2人目が生まれ4人での生活となり、転勤もありと環境が変わる中
で、夫婦関係はどんな変化や考え方の変化があったのかな?
芦澤:コミュニケーションの量は増えたと思う。
家にいる時間が中国や日本の時と比べて増えたのと、色々と話がかみ合うようになっ
てきた。
具体的な仕事の相談っていうのはしないけど、こういうところで悩んでるんだよねと
か、あとは自分こういうことやってみたいなとか、部下の育て方とか、そういう会話
は増えた。
今までは(相手が)分からないから喋っても無駄だなって思って喋ってなかったけ
ど、アメリカに来て、なんかある時からそういう話をし始めたんだよね。そうする
と、(奥さんが)今まで興味がなかったことに興味を持ち始めたのか、インターネッ
トとかユーチューブとかで色々と情報を入れるようになって、だんだん話が合ってく
るっていうかね。
「こういうの見たよ」とかっていう話をしてくれて、「じゃ、それ見てみるわ」みた
いな感じで、今までは話したとしてもあんまり反応を期待してなかったけど、こっち
来てからコミュニケーションの量もそうだし、質も変わったね。

《クロージング》
中尾:最後のクロージングの質問に移りたいと思いますが、今42歳になる歳で、40代から
先、仕事とプライベートでやりたいこと、チャレンジしたいことを教えてください。
芦澤:仕事とプライベートでチャレンジしたいことが一緒になっちゃう。
今は何個かアイデアがあるので、そんなに言えないんだけど、一個はやっぱりビジネ
スがやってみたい。
事業としては小っちゃくてもいいからやってみたいっていうのはある。
基本的には長く生きると思ってるし、60歳で引退するなんて思ってないし、最低でも
80歳ぐらいまでは仕事したいと思ってる。60歳から下がっていくような人生じゃなく
て、60歳からも楽しく仕事をして、自分がやってる仕事で皆に幸せを与えれるってい
うのは、それはめちゃくちゃ幸せなことだね。
ハッピーだから金のためっていうよりも、そういう心身ともに健康のために仕事が出
来るように、先ずは副業から始めたいなとは思ってるかな?
それが多分、プライベートと仕事と両方重なる部分。
あとは中国の経験もアメリカの経験も色んな人に伝えたいと思ってます。
結構若い人で、会社にあんま魅力が無いから(仕事を)変えちゃおうみたいな人がい
っぱいいるんだけど、結構みんな視野が狭くて、海外っていう選択肢がどういうふう
に人生に影響を与えるかみたいな考え方が出来ている人もそんなにいなくて。
自分はそういう経験値があるので、それを色んな人たちというか、特に若くてまだま
だ自分に可能性を感じていて、向上心がある人たちに是非もっと外に出てほしいって
いうのを伝えていきたいし、そういう場を作りたい。
日本と海外を繋ぐ仕事だったりを経験できる場を作りたいなって。で、グローバルに
リーダーシップを発揮できる人材を育てたいなって。それは今の会社でもできるかも
しれないし、仮に副業などでやるとしても今の会社にもメリットが与えられてウェル
カムに思ってもらえたらなと。
中尾:他にアメリカ滞在期間中にやっておきたいことはある?
芦澤:さっきの話にも通じるんだけど、そのためにも今MBAをやってるっていうのはあっ
て。そこでの人脈もできてるので、そういうのも活かせればなと。
勿論、学問より経験の方が絶対上を行くけど、経験ができない期間は少なくとも学問
でちょっとでも補えればと。
あとは、会社ですっごく偉くなりたいっていうのは正直なくて、今はやりたいことが
やれて、まあまあそれで幸せかなと思ってるけど、仮に偉くなってしまった時に、百
人の部下がいましたって言ったら、4人家族が平均だったら400人の人生に関わる話に
なってくるので、その時にいい加減に判断はしたくないので。
ただ営業成績がいいから偉くなりました、で、いざお金を動かす判断を求められた時
に雰囲気とかで判断せずにしっかりと自分で納得ができるところまでは最低限自分の
能力を高めておきたいし、それぐらいやった上でのジャッジだったら、仮にそれが
ね、ちょっとうまくいかない方に行ってもある程度、自分の中でも納得がいくという
か、そうじゃなければ自分で負い目を持ってしまうと。
自分は今までその準備をしてなかったのかというふうになるのは嫌だから。そのため
にも今のうちから、学問で先ずは身につけといてっていう感じかな?
中尾:ものすごく色々と(先のこと含め)考えてるね。
芦澤:人生って何が大事なんだろう?って考えた時に、当たり前なんだけど「幸せの実感」
で、それを満たしてくれる3大要素は「家族の幸せ」と「成長の実感」と「感謝し、
感謝され、関わる人を幸せに」だなと気づき、それを自分の人生のセンターに置い
た。それに合わないものは極力やらないで、今やってることも(この3つと照らし合
わせて)意義があるって思うと、しっかりとした推進力が持てる。
「成長の実感」を自分の中で大事だなっていうふうに気づいて、この3つを柱に置い
たことが色んな推進力に繋がってる。そうすると成長の実感のない時期が怖くなって
くる。
中尾:素晴らしいね。
今日は一方的な質問続きとなりましたが、色んな質問のお答えいただきありがとうご
ざいました。
ということで、今後も定期的に会いたい人に会いに行き、話を聞いてみたいと思います。
それでは第14回お楽しみに。
ではまた。
(了)

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