「私の会いたい100人」
ただただ私の会いたい人に会いに行って話をするという企画でございます。
絵になるのか、内容のある話になるのか、そんなことはお構いなし
会いたい人に会って、出会った当時、一緒に過ごした当時の話やその後の話、
はたまた今後の話について色々と話を伺っていきたいと思います。
そして今の自分がどういう方々からの影響を受けて形成されているのか、
ということを知る一つのきっかけになればと思っています。
それでは、第13回
お楽しみに
<オープニング>
中尾:「私の会いたい100人」第13回のゲスト
廣田 英司 さんです。
廣田さんは、わたくし中尾が「中国」の大連に居たのと同時期に北京に駐在していたのですが、当時サッカーの大会などで度々ご一緒させていただいていました。
帰国したタイミングも2015年のほぼ同時期で、帰国後はまだお互い独身だったことも有り、球蹴りに飲みにとよくご一緒させていただいた方で、そんなお人柄抜群な
本日のお客様 廣田 英司 さんです。
ということで今回は丸亀市の廣田さんの職場にお邪魔してインタビューをさせていただいております。
廣田さんはご紹介でも触れましたが、中国の異なる都市にいたにも関わらず仲良くしてくださっている珍しいパターンのお付き合いなのですが、折角なので色々と伺いたいと思います。
<幼少期>
中尾:先ず、「英司」という名前の由来は?
廣田:僕が聞いてるのは、親父が地元のなんか名前をつける人がいて、それで決めたらしいです。だから僕の同い年に「エイジ」がやたら多いです。
中尾:そうなんですね?!何年生まれでしたっけ?
廣田:76年です。76年で、生まれは香川ですね。
中尾:廣田さんは小学校の頃ってどんな子供でした?
廣田:小学校二年からサッカーやってるんですよ。少年団があったんですね。
他の学校の子も集まって。
中尾:なんで小学校2年でサッカーを選んだんですか?
廣田:社宅に住んでたんですけど、そこでサッカーしてる人がいて、無理やり。
とりあえず一緒にやるぞみたいなサッカー好きの人がいっぱいいて。
なんかやりたいとかじゃなくて、強制的に巻き込まれてたっていうか。
中尾:そうすると、割と小学校時代の遊びの中心というか、時間があったらやるのはサッカーみたいな感じなんですか?
廣田:そうですね、サッカーか刑ドロやってとか。
中尾:どんなことが流行ってました?
廣田:小学校3年か4年ぐらいにファミコンが出たんですよ。
それが出て結構ファミコンをやりだした記憶あります。
中尾:ファミコンみたいなのって、今まで全くない遊びのカテゴリーじゃないですか?
そういうものに対しての親御さんの反応とか、考え方ってどんなもんだったんですか?
廣田:どうですかね?
でもあんまりガミガミ言われたことはないですけど。
中尾:習い事とかしてました?
廣田:サッカーぐらいですね。あとは、6年の時に塾行ってましたね。中学受験。
中尾:廣田さんの時代で中学受験した子ってどれくらいいました?
廣田:どうすかね、少ないと思いますよ。
90人ぐらいいて多分2、3人じゃないですか、受けたのは。
中尾:なんで受験する流れになったんですか?
廣田:塾に入るのも試験があったのですが、なぜか受かって。
塾で(成績の)順番が出るんですけど、40人いたら40番目みたいな感じだったんですけど、好きな子が一緒にいたんですよ。
で、その子が(成績が)上の方で、これはマズいなということで一生懸命勉強しましたね。で、最後の方にちょっと上の方になって、受験の話も出てきたんで、ちょっとやってみようかなって。
中尾:塾にそもそも行くっていうのは自分の意思からですか?
廣田:知らんまに今日(塾の)試験やからねって親に連れて行かれたように思う(笑)
中尾:廣田さんにとっての親御さんってどういう存在でした?
廣田:どうかな?おやじはあんまり記憶はないですね。やっぱ仕事で家にあんまりいなくて。
おふくろは何かガミガミ言ってるイメージがありますけど。
中尾:じゃあそれに結構反発する感じだったんですか?
廣田:まぁ、でもそれは中学校になってからですかね。
あんまり記憶はないですけど、小学校の時はすごい楽しかった記憶しかない。
中尾:少し話がそれますが、僕の香川出身の知り合いって3人しかいないんですけど、3人とも怒ったところ、見たことがないんですよ。
めちゃめちゃ大らかで、周りがちょっとカリカリしてたとしても、「ん?どうしたの?別にいいじゃん」みたいな感じで、なんか別のことを考えてるみたいな。
それが3人も3人揃ってなんですよ。それって香川の県民性なのかとか不思議なんですけど、どう思います?
廣田:いや、そんなことはないと思いますけどね。
まあ、争いはあんまりしないんじゃないですかね。
そういう県民性はあると思いますけど、自分の場合は仕事で県外に出て色んな人に出会って、そこで揉まれてと言う感じかと。
<学生時代>
中尾:話を戻しますが、先ほど反抗期の話もちらっと出ましたけど、中学生は引き続きサッカーを続けていますか?
廣田:うん、部活でやってました。
中尾:中学はどんな子でした?
廣田:小学校は面白かったですが、中学校は逆に楽しかったなあっていうのはあんまりなかった。強い印象も特にないっていう感じ。
部活も真面目にはやってなかったような気がする。熱く皆で頑張ろうみたいなのもなかったんですよね。
今思うと、それはちょっと残念かもしれません。
中尾:文化祭とかのイベントには積極的に取り組んでました?
廣田:そういうのも何もしなかったです。
なんかこう打ち込んだっていうのはなかったかも。
中尾:確か高専に進みますよね?そこへの進学の流れというのは?
廣田:それもあんまり多分よく考えてなかったんですよ。
近所に高専に行ってる人が結構いて、そういう人たちが楽しそうに見えるっちゃ変ですけど、なんかそういうふうに見えて。
あと(高専があるのが)高松なんで、やっぱ都会のイメージがあったし、ちょっと受けてみようかなって。
中尾:高専のことをあまり分かっていないんですけど、いわゆる技術系と言いますか、そういうことを学ぶ場ですよね?
そういったものに対する興味関心っていうのは、既にあったんですか?
廣田:全くないんですけど、いや、結構行き当たりばったりです。
中尾:受験して、受かって入るわけじゃないですか?で、多分いろんなコースがあると思うんですけど、それはどういうふうに選んだんですか?
廣田:僕はその時、制御情報っていうコースがあって、機械言語とかを整理をしていくっていう。そういうのを学ぶみたいな。
中尾:そういう分野っていうのは、当時はまだ新しい分野ですか?
廣田:そうですね。
中尾:高専は5年制ですよね?
廣田:そうです。で、最初はサッカー部入ってたけど2年になる前くらいに辞めて、勉強もせずフェイドアウトしてましたね、バイトとか遊びの方に。
高専って普通の高校と全然違うんですよ。5年生ってもう20歳なんで、先生もあんまりガミガミ言わずに、ちゃんと自分でやれよみたいな。まあ放任主義みたいな感じで。
公立の高校だとバイク乗れないけど、高専だけ乗れるんですよ。それもあって、なんか高専かっこいいなって。
中尾:単位を取らないと留年とかあるんですか?
廣田:余裕で留年しましたよ(笑)四年生の時に。
ヤバって思います。だから、就職して30歳ぐらいまでは留年する夢見てました。
2週間ぐらい休んだら留年するんですよ。で、2週間休む夢を見るんですよ。
その夢に30歳までうなされて…
中尾:今振り返って(機械制御の)難易度ってどうだったんですか?
廣田:僕はもうプログラミングは全くできなかった。うん、めちゃくちゃ合ってなかったです。めちゃくちゃ難しかったです。今やれって言われても多分わからないですね。
中尾:コースの変更っていうのは出来なかったんですか?
廣田:一応言ってはみたんですけど、やったことないな、みたいな。もうちょっと頑張れ、やみたいな。
で、頑張ってみたんですけど、結局ダメでしたね。
中尾:合わない中で五年って結構長いですよね。
そんな中でどういうふうに就職先って決めてたんですか?
廣田:就職先ももう進められるがままですよ。
とはいっても何社か結構大手受けましたけどダメで、夏休み前ぐらいにそろそろ決めないとやばいなみたいな。
たまたま(求人情報を)見てたら、一番初めに勤める会社の設計とかデザイナー何とかっていう募集があって、そこに応募して内定もらって。
<社会人生活(~北京)>
中尾:21歳で社会に出て、最初の勤務地は?
廣田:最初は高松です。高松でまず仕事して。
中尾:元々設計を学んできた訳じゃありませんが、高専でやってきたことと繋がる部分ってあるんですか?
廣田:もうバッチリありましたね。僕らがやってるその建築設備って言ったら制御もあるじゃないですか?
ちょっと違うは違うんですけど、基本的な考え方とかは理解が早いというか。
中尾:そうなんですね。
高松で何年ぐらい働いてたんですか?
廣田:高松で三年ぐらいですね。その後、東京に移って。
中尾:もともと東京に支店というか拠点があったんですか?
廣田:それが今の会社なんですけど、高松の会社の兄弟会社が東京にあって何回か出張で行ってたんですよ。
そしたら東京の方が仕事のやり方とかええなと。社長の感じとかいいなと思って。
で、ちょっと(東京の兄弟会社に)行きたいです、って会社に言って、行かせてもらっています。
中尾:(東京に行きたいという)希望として出して(勤めていた会社からは)どういう反応があったんですか?
廣田:行ってこいや、とそんな感じでしたね。「もうお前やめさそうかと思ってた。」と。
いや、それがまた高松での(勤務)態度が悪かったんですよ。遅刻はしますしね。
恥ずかしいですよ。高専の延長でしたね。よく辞めさせられなかったなと。
中尾:割とルーズだったんですね?
廣田:(9時出勤のところ)10時ぐらいに行ってたんじゃないかな?
いや、本当、舐めてましたよ。
中尾:周りの方からは怒られたりは?
廣田:きつくは怒られなかったですね。
どうしょうもないって感じで思われてたと思う。
中尾:そうなんですね。意外?!
廣田:東京行ってからは毎日遅くまでやってましたね。ほぼ終電みたいなんがずっと続きましたね。
高松でのんびりしていたのが、もう東京で一変して。
中尾:仕事量もそうですけど、何かしら求められる内容とかも変わってきたんですか?
廣田:やっぱお客さんですかね?厳しかったですね要求が。
ただ、社長、副社長が自分らより輪をかけて仕事してた。
そういうのを見てたら、このままではマズいなと、自分も何とかせんとっていう。
中尾:そういうほぼ終電ぐらいのっていうのがどれくらいの期間続いたんですか?
廣田:どれぐらいかな?5年ぐらい?
それから30歳ぐらいで1回こっち(高松)に戻ってきたんですよ。元の会社に。
中尾:入社したての頃の先輩方とかは、まだ残ってました?
廣田:ガラッと入れ替わってました。だから自分が一番上なんですよ。
自分を知っているのは社長ぐらい。
戻ってきたら(東京時代から)さらに輪をかけてハードで。やり方もあるんでしょうけど。
中尾:忙しくて遊ぶ時間もありませんと、その期間がもう5年も何年も続くと、やっぱりちょっと精神的にきつくなったりとか、いや、こんなはずじゃなかったなって言って、ドロップアウトするケースもあるじゃないですか?
続けられた動機っていうのはどんな点があったんですか?
廣田:なんですかね?ちょっとそこらへんの自分なりの分析とかはしてないですけど、多分ですけど、東京に行くまでの自分があまりにも酷すぎて、他の仕事をしていても、多分その仕事をずっとやってたと思いますよ。
だからただ、この仕事を始めたからには、きちんと一人前になりたかったし、一人前になるまできちんとやらないといけない的なんがあったんだと思います。
<北京時代>
中尾:30歳くらいで高松に戻ってきて、何年か仕事をして、それから北京ですか?
廣田:高松に戻ってきて結構ハードにやってて、で、東京の社長から中国で何かやろうとしてるみたいな話があったんで意見交換と、かしてるうちにそっちの方で頑張ろうかなみたいな。
28か9(歳)に(高松に)帰ってきて、5年後ぐらいですね。30半ば近くになってて。
中尾:立ち上げでいくわけですよね。
廣田:そうですね。
中尾:その時はだいたい何年ぐらいねとかって決まってたんですか?
廣田:特にはなかったです。とりあえず行ってこいみたいなそんな感じでした。
ちょうど日本に帰化した中国の人が北京にいて、その人は建築の設計やってたんですよ。
なので(自分が)設備の方を中国でやっていこうっていう。それで行ったんですけども。
2010年の夏ぐらい。
中尾:その時が初めての中国ですか?
廣田:旅行で1回行ってたかな?上海ですけど。
中尾:旅行で行った時の中国の印象ってどんなもんでした?
廣田:なんだろうな?なんかえらい賑やかやなと思いましたけどね。
中尾:旅行で行くのと住むのってまた違うじゃないですか?実際、住み始めた時の住環境を含めてどうでした?特に初期の場合。
廣田:僕は大手の駐在じゃないので、普通のアパートでめちゃくちゃ不便でした。
あと通訳も若い子がいたんですけど、日本語学校出たてで、しかも専門性が高い分野だから、難しいですよね。
そんなの日本語(学校)で勉強してませんみたいな。
僕も中国語喋れないんで。気が付いたらその子がなんか全然違うことをやってるから、あれ?みたいな。
だから結局はその日本に帰化した人に間に入ってもらって。
中尾:向こうに行った時のお客さんっていうのは北京の法人なんですか?それとも日本の設計の仕事をアウトソースで受けてたっていう感じなんですか?
廣田:最初は向こうの法人。ただ、行ってみて分かったんですが、中国の設備設計やってる人のレベルはすごい高いんで、別に俺やらなくてもいいじゃんっていう話なんですよ。
だから、これは(当初思っていたことと)ちょっと違うなみたいな。
現地の大手設計事務所に何回か行って、設計とか見せてもらいましたけど、これで十分じゃんみたいな。向こうからしたらわざわざ(自分たちと)組む必要もない。
中尾:意外というか、勝手なイメージですけど、中国って(外)側はとても立派ですけども、中(構造)はボロボロだったり、どんな機能性なの?みたいなイメージがあったので、
そういう設計のレベルも(日本の感覚と)大事にしてる部分が違うのかなみたいなそんなイメージあったんですけど、そういうわけじゃないということですよね。
廣田:日本と同じように基準があって、基準通りにやってるんですけど、レベルは高いと思います。
あと、日本に帰化した方が(北京駐在)2年目ぐらいに亡くなっちゃうんですよね。
病気で。それからは完全に東京のアウトソーシングやってましたね。
中尾:社長もその方がいたから北京でっていうのが当然あったと思うんで、結構プランが崩れたのでは?
廣田:そうですね。でもまあ、アウトソースとか、現地の何人か雇って結構できてたので、僕が管理して何人かで設計書いて、それは出来ていたんですけど、(将来に向けて)希望がどんどん広がるか言うとそうでもない。
中尾:そうなんですね。
仕事も結構忙しかったと思うんですけども、その中でサッカーチームへの参加はどういったきっかけがあったんですか?
廣田:どれぐらい?向こうに行って半年か1年ぐらいの時にフリーペーパーに(サッカーチームの情報が)載ってて、サッカーしたいなあと思って。
中尾:サッカーは北京だと何チームもあったと思うのですが?
廣田:えっと何個か載ってたと思うんですが、(参加を決めたチームの募集欄に)「美味しいお酒を飲みましょう」って書いてあった(笑)
ちょっと求めてたんでしょうね。(住まいも職場も)日本人が全然いない地域だったんですよ。
近所のスーパーとか行ったら「ええ、誰?外国人?」みたいな。
だから全然分からなかったです、日本人が住んでいる地域やお店の集まっている地域も。
だからサッカーチーム入ってから、え、この辺日本人いっぱいいるんや、とか何かめちゃめちゃ楽しそうやとか。
中尾:(駐在員は)良いところに住んでますからね。
廣田:そうですよね。いい暮らししてますもんね。
中尾:活動も定期的に参加して?
廣田:そうですね。平日の練習が苦労しました。
中尾:ある程度時間のコントロールというか、お仕事のバランスは取れるような状態が作れてたんですか?
廣田:うん、そうですね。日本の激務の時と比べるとだいぶ変わりましたね。
まあ、楽しく飲みましょうっていうのがコレか?!みたいに最初ビックリしましたけどね、これかみたいな(笑)
一人ずつ挨拶して、なんか面白いこと話さないかんみたいな感じだったんですよ。 で、しかも俺、一番端に座ってたので、うわ、俺、最後や、って。
みんな楽しいんですよ、面白いこと言っていくんですよ。俺は面白いこと全然言えない。
中尾:廣田さんは年上からも年下からも慕われているというか、親しまれてる印象があるんですけども、割とすぐに馴染んでいきました?
廣田:そこは、だんだん慣れていった感じですね。楽しかったですけど、でもまあ、(他のメンバーは)結構面白いというか濃いから。
それを(自分は)持ってないから、やっぱ存在感はそんな無かったですけど、Kが参加するようになって二次会とかにも「行きましょう!」みたいな感じで引っ張ってってくれたりして、そこから段々とそうなっていった感じですね。
中尾:今振り返ってサッカーチームのメンバーから強く影響を受けたことってあります?
廣田:それが何かって言われると、ちょっと分かんないんですけど、でも結構、繋がってますよね。
幼馴染みたいに、すごい離れてても久しぶりに会えば直ぐにわあってなる、そんな感じ。だからすごい親近感っていうか、心のの距離が近いというか。
<帰国後>
中尾:2015年に日本に戻ってくることになりますが、その時期とか、タイミングというのは何かしらの流れがあったのか、それとも別の外的な要因とかがあったのか?
廣田:流れですかね。まあ人件費も上がってきて、中国でやるメリットはそんなにないやろうと。
一人若い子を育てたので、その子に北京を任せようと。
中尾:(帰国から9年ほど経ちますが)今も事務所はあるんですか?
廣田:あります。今年その子が自分の会社を作って。
それまではフリーランスみたいな感じで一人でやってたんですけど、会社を作って、何人か雇って一生懸命頑張ろうとしてますね。
中尾:もともとの役割だったり、目標、目的があって北京駐在して、でも先ほど伺った話だと、当初とは多少やることとか変わったとは思うんですけども、日本に帰るタイミングでの達成感とか、成果物などでのご自身の感覚はどんなものでした?
廣田:そうですね。今思えば赴任時に思い描いたものが無かったかもですね。だから達成感はなかったんですかね?
多分目標とか目的があったら良かったんでしょうけど、なんか流れで何かしら出来たらなぐらいの感じだったので。うん。
その中でも(当時のスタッフとの)繋がりが残ってるっていうのと、サッカーチームのメンバーたちとお会いできたっていうのは達成感じゃないですけど、自分の中では財産です。
中尾:兄弟会社で行ったり来たりはあるものの、トータル30年近く働き続けてるわけじゃないですか?
先ほどは、一人前になるまではみたいな話がありましたけども、30年近く働き続けるっていうのはまた違う動機がありますか?
廣田:そういう意味では強い思いは今ちょっと薄れてきたかもですね、正直なところ(目標・遣り甲斐を)探してる感じです。
(地元香川に戻り)所長になって、会社を大きくするとか、従業員を雇うとなると、目的とか目指すものとかないと働く人も、中途半端じゃマズいなっていうのがあるんで、
そういうのは自分の中できちんと出していかないかんなと。
中尾:帰国後、東京で仕事をして、結婚してお子さんが生まれてと数年の間に色々あって、それから香川に戻ってきてるじゃないですか?
香川に戻ったのが2022年でしたが、そのタイミングはどのように決まっていったんですか?
廣田:子供が小学校に上がる前にっていうのを妻が言ってたんで。
で、本当はコロナになる前に帰る予定だったんですけど、結局コロナが明ける頃になってって感じですね。
まあ自分としては(東京の生活に)心残りはありますけどね。すごい住み心地が良かったんで。住んでたところもすごい好きだったんですよね。
結婚した土地でもあるし、子供が生まれたんで、すごい思い出深い土地なんで。
ようやくこっちに足がついてきつつあるかなって感じですね。
中尾:この間、久しぶりに会ったら、子供たちはもう香川弁というかこっちの話し方になってるじゃないですか?
完全にもう馴染んでるのかなみたいな、そんな印象はありましたけど。
廣田:そうですね(笑)
中尾:(地元に帰る人は沢山いると思いますが)廣田さんも奥さんも東京での仕事を辞めずにそのまま移住というなかなかなレアパターンだと思うんですけども、そのあたりは結構ハードな交渉があったりしたんですか?
廣田:僕は全く無かったですね。奥さんもそんなにハードじゃなかったんじゃないかな。
僕は30(歳)前に一度帰って来た時に今の会社の支店としてやらしとったら良かったなみたいな話を今の社長と話してたことがあったので、社長としても別に(香川に帰っても会社に)残ってやってくれるんだったら、もうどうぞっていう。
だからもう感謝しかないっすよ。ありがたい、感謝です。それで生きてる感じですね。
だから何かを求めてとか何かこうしたいっていうよりも、ありがとうございますっていう。
中尾:生活環境は明らかに東京と違うわけじゃないですか。どういった変化が生まれました?考え方とか
廣田:両親と一緒にいて、昼ご飯とかも作ってくれるから、完全に東京にいる時より楽なんですよ。
で、楽なのはいいんですけど、また傲慢になってくるんですよ。
味がどうだのとか、片付けしないとか、やっぱりそういうのが出てくるんですよね。自分の中で。
だから、逆に自分がちゃんとしないといけないなっていう。そのまま甘えてるとちょっとまた(いい加減に)なっていくしみたいな。
その繰り返しなんやなって(今こうやって)話をしながら思いました。
自分は色んな人に色んなことをしてもらってるんですけど、それを逆に僕が何かに対してきちんとそれを返してるのかなっていうのは、今話してて疑問やなと思うんですよね。
今度はもらったものをきちんと返していくような人生にちょっとずつしていったら良いんじゃないかなって話ながら思いました。
中尾:周りの皆さんに色々と与えてもらってるなという?
廣田:うん、それは本当そう思うんです。
中尾:そういう意味では、(廣田さんが)それだけやってきてくれてた方だから、向こう(社長)も支店を任せてくれてるという見方もあるかと思いますが。
廣田:まあ、そうかもしれないですけどね。
中尾:香川での生活で不安な点とかってあるもんですか?
廣田:まあ、子供の教育の面ですかね?
僕みたいに育ってほしくないっていうね、今お話した通り。
(田舎で育って)外に出てようやく自分に愚かさに気づくっていうのが25、6だとちょっと遅いと思うので、そういう風にならないようにするにはどうしたら良いのかなっていう感じですね。
中尾:将来的にまた東京に戻るとか、別のところに移るだとか、家族でというか、先ずは廣田さんが何処かに行く可能性っていうのはあるんですか?
廣田:どうですかね?そこは妻とも話しますけど、やっぱり60歳とか70歳とかになったら、妻の実家に長期滞在じゃないですけど、ゆっくり香川と行ったり来たりできるような、そういうのは夢ですかね。
まだまだなんですけど。子どもが20歳になるのが(自分が)70歳なので、やばいっすよ仕事もバリバリやるっていうのと、あとは80歳ぐらいまでサッカーしたいな。
<クロージング>
中尾:では、最後の質問です。今ちょっと答えが出ちゃったんですけど、これから50代を過ごすに当たって新たにチャレンジしたいことをお仕事とプライベートとそれぞれ教えていただきたいなと思うんですけども。
廣田:仕事は今の支店の拡大ですね。あとは個人事業主としてもやっていきたいなって。
自分が何かこう思いを込めてやれる仕事とか、そういうのをやってみたいなって。
中尾:プライベートはいかがですか?
廣田:プライベートはサッカーの大会で活躍したいですね。
だから体作りの一つとして始めてるのが山登り。
すぐに山を走れるのでそういう環境が近くにいっぱいあるんですよ。
あとは僕、高専(出身)なんで、ちょっと大学で専門的なことを学びたいなっていう感じですね。
中尾:それは設計の分野ですか、それともまたちょっと違う分野ですか?
廣田:工学系になるかなと思うんですけど、もしくは人文系か社会科学系とかそういうのに興味がある。
中尾:インタビューは以上ですが、インタビュー受けてみてどうでした?
廣田:自分が何も考えてないのが分かりました(笑)
考えてるようで考えてないですね。
中尾:今日は一方的な質問続きとなりましたが、色んな質問のお答えいただきありがとうございました。
ということで、今後も定期的に会いたい人に会いに行き、話を聞いてみたいと思います。
それでは第14回お楽しみに。
ではまた。
(了)
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