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nakao3126

【私の会いたい100人:第12回】


「私の会いたい100人」


ただただ私の会いたい人に会いに行って話をするという企画でございます。


絵になるのか、内容のある話になるのか、そんなことはお構いなし


会いたい人に会って、出会った当時、一緒に過ごした当時の話やその後の話、

はたまた今後の話について色々と話を伺っていきたいと思います。


そして今の自分がどういう方々からの影響を受けて形成されているのか、

ということを知る一つのきっかけになればと思っています。


それでは、第12回


お楽しみに


<オープニング>


●オープニング


中尾:「私の会いたい100人」第12回のゲスト


   ジーマさんこと 小島 英資 さんです。


小島さんは、わたくし中尾と「中国」の大連に居た期間がかなり重なっていて、一緒に球蹴りをしたり夜ご一緒したりと多くの時間を共に過ごしてくださった先輩で、家族を帯同しての赴任だったので、それほど自由が利かない中でも本当に付き合いが良く、サッカーにも真摯に取組み、夜もお酒がそれ程強く無いにも関わらず、ニコニコしなががらみんなの話を聞いてくれていた、愛されキャラ


本日のお客様 小島 英資 さんです。


中尾:ということで今回はジーマさんの単身赴任先である広島県に来てインタビューをさせていただいております。


   ジーマさんはご紹介でも触れましたが、大連では結構長い期間一緒に過ごしましたが、互いにプライベートな話をと言う感じでもなかったので、今回は折角なので色々と伺いたいと思います。




●幼少期


中尾:先ず、「英資」という名前の由来は?


小島:画数です。実家の隣に、その町の子の名前を付けてくれるおばあちゃんがいて、その人があなたの誕生日はこの画数が良いっていうことで決めたって聞きます。


中尾:「えいじ」っていう音が先ず有って、その画数を当てはめたんですか?


小島:画数から。画数ありきで。


中尾:そうですか?!

   生まれは愛知県ですか?


小島:里帰り出産で長野です。産後に愛知に戻って愛知で育っています。


中尾:何年生まれですか?


小島:1974年です。


中尾:幼少期は愛知で?


小島:高校生まで愛知ですね。


中尾:小学校の頃はどういうのが流行ったりしてました?


小島:3年生ぐらいの時にキャプテン翼が始まって、みんなで校庭でボール蹴ってとかそんな感じですよね。

   祖母も曾祖母も家に居たので、家に帰ってカバンおいて、ファミコンとか習い事でそろばんとかもやってたけど、その後、結局サッカーしてる感じですね。小学校のグラウンドにみんな来てサッカーをやるっていう。


中尾:小学校は何人ぐらいいました?


小島:僕ら団塊のジュニアだから一クラス43人とかで三クラス。


中尾:結構いますね。

   サッカーをして家に帰ると、お祖母さま、曾お祖母さまがいるという環境の中で、その時の親子の関係性或いは親ってどういう存在でした?


小島:良い両親だったような気がします。その時は何も考えてなかったですけど。

   まあ優しい。いや、あったかいというか。それはありますね。


中尾:自分が小学生の時の親との関係性と今親になったジーマさんと子供との関係性を比べるとどんな違いを感じます?


小島:ええ、どうだろう?なるべく一緒にしようとしてますけどね。

   親が(自分に)してくれたことを子供にもしてあげようと。当時と違うこともあるからそこはアップデートして。

   ベースにはなってる考え方とか、確かああいう場面でこういうことしてくれたなとか。

   

中尾:単身赴任なので、今は物理的に離れてるじゃないですか?

   奥さん経由とかで子どもがあなたのことこう言ってたわよ、みたいなのってありますか?


小島:それは、今の話では無いんだけど、大連でも最後の2年間は単身赴任だったじゃんね? 

   その後帰国して一緒に暮らし始めた時に嫁に言われたのは、「(子どもたちから)お父さんと思われてないからね」って言われて、こっちは勝手にお父さんと思ってたのに、そこがね、すごい「えっ?!」と思って。


   2年間いなかったことに対してのお父さんとしての何か信頼感とかは、子供から見るとあんま無いんだよって言われたことがある。

   思えば、あまりね父性みたいのは無かった。ここ2年ぐらいだね、「やっと父性が芽生えてきたね」って(妻に)言われた(苦笑)


中尾:じゃあ子供がどうこうっていうよりは、ジーマさん側からの発信が。


小島:いや、俺もそんなつもりなかったんだよ。振り返るとね。振り返ると、あ、そういう意味だったのねっていうのは何となく分かる。

   こっちはお父さんやっとるつもりでいたけど、子供はそんなにお父さんと見てないよ、みたいな。


中尾:そのギャップはめちゃめちゃドキッとしますね。


小島:だけど俺はそこ、鈍感力が強いからあんまりね。

   ただ、やっぱり良くないなと思って、色々やっぱ関心が出てきたのかな?




●学生時代


中尾:少し話を戻しますが、小学校から中学校っていうのは、そのまま公立の学校に行ってという感じですか?


小島:そう。それで引き続きサッカーをやって。


中尾:サッカーを続けようと思ったのはどういった理由で?


小島:単純にサッカー好きだった。

   あと、メンバーが基本的には(小学校時代と)一緒だから。


中尾:他に何か、例えばなんとか委員会とか何か印象に残ってることや力を注いだことは?


小島:僕、小学校の時は学級委員とかちょろっとやっとったんですけど、生徒会もやらされたっていう感じで。

   6年生かなんかに先生からやりなさいって言われてたんだけど、本当にやりたくないから、「そんなこと言ったら、演説で僕はやりたくないですって言います」って、先生に言っちゃった。


中尾:本当に嫌だったんですね。

   どういう仕事に就きたいのかって、なんかそういったイメージは既にありました?


小島:何もないですよね。でも、サッカーにまつわる何かとは書いてたかもしれない。

   ダイヤモンドサッカーでメキシコワールドカップのマラドーナとかトヨタカップのプラティニとか観てたし。感動。そうか、サッカーってこういう世界があるんだ、みたいな。


中尾:学業はどうでした?


小島:学業はね中の上くらい。まあ塾に行っとったんですけど、塾の先生が怖いからそれで勉強しとったみたいな。返事しないだけで殴られるから。


中尾:受験のために塾行ってたわけですよね?

   高校はどういう考えだったり、選択肢から選んだんですか?


小島:市内の一番頭が良い高校があって、次にちょっと頭がおかしい高校があるんですけど、そこに僕は推薦で行ったんですよ。

   別に入りたいも入りたくないも何もなくて、別に行けるならと。で、高校も引き続きサッカーをやってて。


中尾:めっちゃ好きじゃないですか?


小島:実は柔道部に行こうかなと思って見に行ったんだけど、やっぱり小中と一緒にやっとった子がサッカー部に入ったりしてたんで。


中尾:部活は厳しかったですか?


小島:小学校の時は手が出る人だったけど、中学高校で殴られたりしたっていうのはあまりないですね。

   ただ、高校2年の時に少し病気が発症して、ちょっと運動するともうそれ以上体が追いつかないんです。

   みんなで走ってる時に(自分だけ)もう走れんくなっちゃって、何でかなと思いながらそのままずっと部活をやっとったんですけど、

   部活引退してあんまりにも調子悪かったから病院に行ったら病気だったっていう。


中尾:ちゃんと病院行ってよかったですね。


小島:多分お袋と一緒に行ってる。


中尾:今は症状は無いんですか?


小島:高校卒業してからずっと無かったんだけど、2年くらい前かな、お酒飲んでたら気持ち悪くなっちゃって、

   これ前と一緒かも?と思って病院に行ったらやっぱりそうで。

   いつ出てくるかも分かんないし、だって本当に30年ぶりとかですよ?


中尾:コントロールできないですもんね。

   部活引退後の高校3年生に進路がありますが、どういうふうに進路を決めていったんですか?


小島:大学行きたいとか、別に特に何の考えもなくて、行くもんなんだなと思って。まあ、家を出たいっていうのがあって、家を出るんだったら、お金のかからない大学に行きなさいって(親に)言われて。

   (県)外行くんだったら国公立じゃないとダメだよって言われて国公立にしたんですよ。


中尾:家を出て一人暮らしをしてみたいと思ったのは何故ですか?


小島:家がやっぱり優しいから、そういうのになんとなく飽きてたんじゃないですか?このままじゃいかんみたいな。なんとなく甘やかされとるなっていうのは多分あったと思います。


中尾:大学生活はどのように過ごしましたか?


小島:えっとね、勉強は本当しんかった。

   法律(学科)なんだけど六法とか言えんかったのね。

   別に法律やりたくてやったわけじゃなくて、この科目だったら受かるだろうぐらいのそんな選択肢ですから。


中尾:まず家出ることが目的だったから?


小島:そう。で、部活はサッカーの強い大学だったこともあり、そっちに行かずになんと剣道部に入ったんですよね。

   ちょっと個人競技をやってみたいなと思ってたから。


中尾:高校の時も柔道やりたいって言ってましたもんね。


小島:坂本龍馬に憧れて剣道に入った(笑)


中尾:卒業するまで続けたんですか?


小島:続けた。まあ、僕は3年生を終わって1年ほど中国に留学したから、そこで一旦区切りになっちゃいましたけど。

   今でも剣道のメンバーは1年に1回集まって旅行するもんね。


中尾:剣道って当然、これまでやってきた方々の中に混じるわけじゃないですか?

   どうなんですか?雰囲気とか。


小島:最初はコイツすぐ辞めるだろうなと同期の中でも思われてたと思います。


中尾:続けられたのは何でですか?


小島:やっぱり根本的に面白い。こうやって構えてると本当に研ぎ澄まされて、すげえ集中するんだよ。

   で、日常では考えられない声を出したり、すごい集中して、あれはね、すごく面白いっていうのはあったし、あとはまあ周りが良い人ばっかり。

   それがないとやっぱ続かんじゃん。


中尾:そうですよね。

   先ほど勉強はあまりしていないという話でしたけど、部活動の他には?


小島:バイトもやってました。まかない付きのラーメン屋で。

   

中尾:それで3年終えたところで1年留学で?留学先はどのように決めたんですか?


小島:留学先は中国だったんですけど、その時は中国ブームみたいな、これから中国が来ますねみたいなのがあったのと、あとはまあ、別になんか特技が自分であるわけでもないし、このまま就職して、社会に出ても、ちょっとやばいなという怖さもあったし、ちょっと武器作らなあかんなって。


中尾:当時は(留学先に)結構日本人も多かったですか?


小島:まあまあ多かったです。最初の頃は絶対日本人と喋らんとこうと思っとったけど、結局喋っとった。


中尾:多いとそうなっちゃいますよね。


小島:仲良くなった学生と休みの時に電車で旅行したりしてたんですけど、新疆の方って人も言葉も全然違うし、天池っていうところでは、食堂で食べる時に、向こうって生きとる羊をそのまま締めてくれるじゃん?で、腸とか出てきてそれを池でペンチみたいなので開けると腸に入ってる草がバーって広がるじゃん。

   そうすると、その池の中から魚たちがその草を食べるっていうね、これが本当の食物連鎖だなみたいなのを目の当たりにして。

   そういうのが色々あり過ぎて、北京に帰ってきて3日間ぐらい部屋に籠ってずっと紀行文を書いとった(笑)


中尾:20歳前後のそういった感覚って全然違いますもんね。


小島:今までの安心安全な生活とは違くて、いろいろ物事を考えるようになってきたなっていうのがあって。


中尾:すごい体験ですね。

   そこから1年の留学生活が終わって、復学してって言っても、残り一年なので就職を考えるタイミングですよね?


小島:なんかまあ中国語をやってきたから、一応それを武器じゃないけど、(留学)行ってきましたよみたいな話をしながら。

   まあ、根拠のない自信があったから大概受かっとったよ。だけど、今入ってる会社がまあ雰囲気いいかなと思って。




●社会人生活(~大連)


中尾:最初の赴任地はどちらですか?


小島:僕は東京。東京に10年居て、8年大連に居て。


中尾:東京から大連なんですね?東京での生活はその時が初めてだったと思うのですが、どうでしたか?


小島:荻窪に住んでたんですけど、休みの日に吉祥寺の方まで歩いたんですよ。

   すげえ人が多いから今日祭りかな?って思ってたらただの週末だったとか。

   ただ、寮にも結構遊んでくれる人がいたから馴染んじゃって。8年、9年くらい寮生活で、その後寮を出て1年くらいしたら大連行きが決まってみたいな。


中尾:大連に行くのはどういった流れとか経緯だったんですか?


小島:10年くらいずっと一つの部署だったから会社の中であいつもそろそろみたいな感じで。

   その時って会社も業績が悪くなかったから、新しい拠点にとにかく人を出せみたいな感じで。

それで大連に(拠点)出すみたいので、私が指名されて。


中尾:立ち上げですね?

   それはなかなかのポジションというか、役割なんじゃないんですか?


小島:いやまあ分からん。だけど面白かったよ。


中尾:結婚間もないじゃないですか。ご家族は?


小島:(赴任から)半年後。長男は生まれてて半年後に(妻と長男)2人が来て。


中尾:その時って自分も遊びに行ったことがある所に最初から住んでました?


小島:いやいやいや、最初はもうローカルの所ですよ。オフィスも町のはずれの方で、日本と電話しとって、「今日寒いから帰るわ」って言った覚えがあって。

   相手も「どういうこと??」みたいな。「分からんだろうけど、そうなんだ!」って(笑)

   そんなんだから、家族が来て、さすがにこのままではマズいって会社に話して、ちょっとまともなところに移らせてくれって移ったんですよ。


中尾:そこからご家族もちゃんと暖かい環境でというか、生活しやすい環境に。


小島:ただ、冒頭に言ってたけど、家族おるけどサッカー行くみたいな、良く付き合ってくれたみたいな言ってたけど、あれがいかんかったんだって。

   付き合い良かったけど、付き合い良くしてたんじゃいけなかったんだって。(妻から)今だに言われるもんね。あんた(サッカー)行ってたよねみたいな。で、勝手に大怪我してそれで日本に一ヶ月帰っとって。


中尾:家族からしたら意味わかんないですよね(笑)


小島:家族は自分の仕事の都合で来てるのに、自分が居ないってどういうこと?みたいな。


中尾:なんで私(奥様)は大連に居ないといけないの?!みたいな?


小島:やっぱそこら辺は言われますよね。

   だから全然説得力ないけど、(会社の)若い子たちには、俺の話をよく聞いとけよって。


中尾:ご一緒したサッカーチームに参加するきっかけは何ですか?


小島:僕は2008年に中国赴任して、参加したのが2009年からなんですが2009年に嫁が出産で帰ったんですよ。それで時間もあるしで情報誌に載っていた連絡先に連絡して。


中尾:そっかそっか、出産のタイミングだったんですね。

   奥様からしたら、その時だけだろうと思っていたのが、(子どもを連れて大連に)帰ってきてからもやってるしみたいな。


小島:2009年から2016年かな。


中尾:そっか、7年ぐらい。長いですね。


小島:それが一番言わないかんかな。サッカーチームにはね、本当にお世話になりました。


中尾:いや、でも本当に年上年下関係なくみんなジーマさんに愛着というかすごい親しみを持って接してたような印象がすごいあります。


小島:それでも自分の中では、いろんな組織でも仲良くなるのに2年かかるので、(7年と言っても)自分の中では前半後半ってあって、後半の方が多分カツさん(中尾)とかと馴染んできたっていうのがあって。

   なんとなく自分も皆さんと馴染んできたなっていう感じ方も、(サッカーで体も)動くようになったし。世代の近いおじさん軍団もいたし。その時が一番楽しかった。


中尾:サッカーチームも7年いて、駐在期間も8年で、普通の駐在が3年、5年とかが一般的に多いと思うんですけど、日本に帰任するタイミングになって、駐在の元々の役割とか目的っていうのはどうでしたか?


小島:自身の中である程度全うできたという感覚があって、(大連での事業を)自分の中では自分の作品と思ってた。

   売上ゼロから○○億円ぐらいやってたね。めっちゃ働いとったし、中国(経済)も良かったと思いますが、それもよかった。運も良かったってあるんですけど。それは本当に楽しかった。


中尾:それを言い切れるっていうのはかっこいいですね。




●帰国後


中尾:帰国後は愛知ですよね?


小島:そこで5年ぐらい。


中尾:以前の話だと、帰国後は自身の大変さよりも、家族の大変さの方が色々とあったっていうようなお話があったと思いますが。


小島:仕事も大変。大体仕事も家族の生活っていうのがちゃんと回らないとうまくいかないじゃん?両方とも大変だったから。

   どっちかというと、仕事なんて自分の問題だから、なんとかなるし、家族の問題の方が大変だったかな。

   もうヤバかったんだよ、鬱になんじゃないかなと思ってたんですね。ただ、そこは鈍感力があるからさ。


中尾:並の感覚の持ち主だったらやばかったなみたいな。


小島:カツさん(中尾)の結婚式とか行っとったって時とかも本当に大変で。あの時期はいい思い出がないな。2016年とか2017年は一番最悪な1年。


中尾:そんな大変な中、(ご出席いただき)ありがとうございました。

   引越しして、環境変えてみてというお話を以前聞いていましたが、環境の変化によって、家族の雰囲気というか流れの変化はありましたか?


小島:そうだね、なんとなく最低限がちょっと保てるようになってる感じですかね。


中尾:やっぱ環境の変化って大きいですか?


小島:大きい大きい。今だってクワガタとか飛んでくるからね。

   まあ普通の人が聞いたらどこに住んでるんだっていう感覚だと思うんですけど、まあ自分の中では良いかな。


中尾:小島家に合う環境だった?


小島:うん、まあ、みんな文句言っとるけどね(笑)


中尾:せっかくそういう住環境を整えたところで、広島赴任の話が出るわけじゃないですか?


小島:マジか?!とは思ったよ。ただ、仕事に関しては来て良かったよ、広島。

   大連に行って8年間上司がいない生活をしとるわけで、日本帰ってきて色んな上司がおる中でやってて、また今も上司いないから、楽じゃないけど自分で色々と出来るでしょ。


中尾:適性ですかね?


小島:こっちの仕事が合うっていうのはあったけど。


中尾:単身赴任という選択肢を取りましたが、そこの話し合いっていうのはどうだったんですか?


小島:家も買ってたし、そんなに環境変えられないっていうのがあって、まあ1ヶ月に1回帰りますからって。

   毎月ちゃんと帰ってますよ。帰らんと本当に家族いなくなっちゃうから。

   ただでさえね、あのズキンとくる一言があったからね。


●クロージング


中尾:最後に、今まさに50歳を迎え、年代が変わってくると思うこと考えることが変わってくると思うんですけど、今後50代で新たにチャレンジしたいことを仕事の面とプライベートの面と、それぞれで教えていただきたいんですけど。


小島:仕事はね、今50歳になって、あと仕事何年やるか分からないけど、子供が自立できるような仕組みを僕は作りたいんですよ。

   ちょっと問題を抱えているような子供が躓かないように、ちゃんと生活できるような仕組みを作りたいなっていうのがちょっと考えとしてあって。

   まだアイディアを持ってないからどうしようかなって。今それやろうとすると、お金の勉強もしないといけないしとか、最近ちょっとそういうことをやり始めてはいる。

   

   だから60歳65歳までが定年とか言ってるけど、そこまで会社におっちゃいかんなっていうのは、実はちょっと思ってて。その前に動き出さないと65歳までやってたら、多分新しいことできないかなと。

   本当は(そろそろ)ちょっとやらないかなとは思ってるんだけど、まだノーアイディア。


中尾:その中で少し勉強だったり、情報収集をスタートしてっていうところですね。


小島:ただ一方で、別に仕事が嫌なわけじゃないから。それに広島でやりたいこと沢山あるから、それをちゃんと一生懸命やらなあかんなっていうのはある。

   今、もう(広島に来て)四年目でしょ?まだ出来てないことがたくさん。


中尾:今のお仕事でもチャレンジがあるし、別の分野でのチャレンジもあるしと。


小島:なんか仕組みを作りたいなと。いろんな人に話聞きたいなっていうのもあるし。


中尾:そういう話は奥様ともするんですか?


小島:最近ね、そういう会話をちょこっとし出だしてるんです。

   そういうちゃんとした会話が今までなかった。最近少しだけでもするようになったから、それはいいんだよね。


中尾:今日は一方的な質問続きとなりましたが、色んな質問にお答えいただきありがとうございました。


ということで、今後も定期的に会いたい人に会いに行き、話を聞いてみたいと思います。


それでは第13回お楽しみに。



ではまた。


                                      (了)




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