「私の会いたい100人」
ただただ私の会いたい人に会いに行って話をするという企画でございます。
絵になるのか、内容のある話になるのか、そんなことはお構いなし
会いたい人に会って、出会った当時、一緒に過ごした当時の話やその後の話、
はたまた今後の話について色々と話を伺っていきたいと思います。
そして今の自分がどういう方々からの影響を受けて形成されているのか、
ということを知る一つのきっかけになればと思っています。
それでは、記念すべき第10回
お楽しみに ☆写真を撮り忘れるという痛恨のミスを…
<オープニング>
ということで始まりました「私の会いたい100人」ということで、第10回のゲスト
佐藤社長 です。
佐藤社長は、わたくし中尾が新卒で入社した会社で営業の仕事をしていた時のお客様で、
二十歳そこそこの自分に厳しくも温かく接してくれた方で、会いに行けば仕事の話抜きで、
色々と話を聞かせてくださいました。
この先第何段まであるか分かりませんが、色々と遡って話を伺っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
<幼少期>
中尾:前に幼少期は川崎にいたと聞いた記憶がありますが、生まれは川崎ですか?
佐藤:栃木。三歳まで。親父がこっち(川崎)に仕事で来てたから、三歳になる前にこっち
来て。
中尾:戦後間もないですよね?
佐藤:戦時中です。朝鮮戦争があるから。
中尾:1949年(生まれ)ですよね?(そう)
物心ついた頃の町の状態ってどういう感じだったんですか?
佐藤:私たちの時代なんてね、遊んでてズボンが切れちゃえば、継ぎ接ぎしたりして、車も
本当に走ってないぐらいだよね。
中尾:銀柳街はあったんですか?
佐藤:銀柳街ありましたよ。さいか屋と小美屋も。銀柳街のさいか屋の方に出店とかあっ
て、鰻釣りとかもあった。
思い出として今でも残っているのが、おもちゃを初めて買ってもらったの。その屋台
で。自動車。今でも覚えてる。
やっぱり貧しくて親が面倒みないでグレちゃう子はいっぱいいたけど、私は両親にき
ちんと教育してもらっていたなと、学校の教育じゃなくてね、
学校で教えてくれない教育を両親がしてくれたから、結構素直に育った方だと思って
る。おとなしい良い子だったよ。
中尾:それはなかなか信じがたい…(笑)良い子はまだ許容できるとして、、、
小学校時代もまだ川崎ですか?
佐藤:川崎。20歳まで。
中尾:川崎区ですか?
佐藤:川崎区なんてない時だから。
中尾:電車はあったんですか?
佐藤:市電。路面電車。さいか屋が終点。その後に高校生の時に路面電車は廃止になった。
その市電の(線路を)取るのも、僕がやりました。土方の仕事やったの、アルバイト
で。中学校の時にアルバイトやっている子いる訳。みんな新聞配達か牛乳配達。
自分もやりたいって言ったら、両親が(高校まで)絶対アルバイト禁止って。
姉さん2人は中学校卒業でもう働きに出た。まだ子どもよ、今考えればね。
で、自分も当然中学校を出たら働くもんだと思ってた。
何やろうかな?って中学校の時に考えてた、みんな高校行くのに。
どうしようって迷ってた時に親父から呼ばれて、「お前は高校行け」と。「男は一人
だから、お前だけは高校行ってもらいたい」と。
中尾:中卒で働く方も多かったんじゃないですか?
佐藤:我々の時代でも高校は皆行ってたよ。
中尾:割合としても高校に行く方の方が多かったですか?
佐藤:殆ど。
中尾:小学校で学校の規模ってどんなもんだったんですか?何人のクラスが何クラスぐらい
あったんですか?
佐藤:50人クラスが4クラスくらいで、中学校が10クラスくらいか。
担任なんて1年生から6年生まで一緒。伊藤○○先生、フルネームで覚えてる。
中尾:クラス替えが無いと言うことですか?
佐藤:無かったと思う。
いい子で大人しかったんだけど、大人になってからの仕事の第一志望みたいじゃない
けどね、やりたい仕事があって、それがその時に生まれたんじゃないかなと思うんだ
けどね。本当に当時は大人しい子だったんだけど、4年生かな?学芸会があって、ク
ラスで役割を決めるんだけど、主役から決めていくんだよ。
その時に主役で必ず手を挙げたのが一人、私だったの。大人しかったのに学芸会の時
だけ手を挙げて。それで「おおきなかぶ」をやって。
中尾:よく手挙げましたね。
佐藤:自分でも分からない。やりたかった。本当に役者になりたいと思った時あったんだ
よ、大人になってから。あの時の経験かな?と思って。
中尾:みんなからの声がけとかも変わってきたんですか?
佐藤:変わってきたね。確か4年生かな?それからなんか喋れるというか少し表現できるよ
うになってきて。
その時から変わってきたのが、下級生のボランティア。教室に入ってから先生が来る
まで待ってる時間が結構あるから、その時に一年生のそこ行って色々お話をしたんで
すよ。
中尾:それは言われてじゃなくて率先してってことですよね?
佐藤:そう。1年生の面倒を見てて、先生が来るとバトンタッチ。「どうした?」って(先
生に)聞かれて、「(1年生と)先生が来るまでみんなとお話していました」って。
「あいつはそうやって面倒見てくれてるんだよ」って、先生方からすごく評判良く
て、医務室の先生にまでよくしてもらって、帰りにいつも目を洗ってもらってた。
その先生が結婚して(自分と同じ)佐藤になった。
中尾:その頃は何して遊んでたんですか?
佐藤:学校では三角ベースとか野球。家帰ったらビー玉とかメンコとか。
中尾:じゃあ直接家帰るっていうよりは、学校で一通り遊んで暗くなったら帰るっていう感
じですか?
佐藤:いや、学校終わって直ぐ帰ってたね。やっぱり野球が多かったのかな?
中尾:その頃は川上(哲治)の時代ですか?
佐藤:そう、長嶋さん、王さんの9連覇。長嶋さんとは話をしたことがあるんだけど、それ
は高校の時だからもうちょっと後。
<学生時代>
中尾:中学生の頃はどんな子どもでした?
佐藤:中学の頃の思い出はあんまりない。あるわ?!私がテニスをやりたくて、中学入った
らテニス部が無くて。
中尾:テニスやりたいってのはそもそもなんでですか?
佐藤:親父の会社でテニス部があって、遊びに連れていかれた時に、ちょっとやってたこと
があって。
中尾:当時でテニスって結構ハイカラな感じなんじゃないですか?
佐藤:そうだよね。で、やりたかったけど部活が無くて。教頭先生に聞いたら「昔はあった
んだけどね」と。
しょうがないなと、床運動、体操部に入ったんだよ。それを1年間やってたんだよ。
そしたら2年生になった時に、教頭に呼ばれて、テニスをやっていた先生が新しく赴
任したからテニス部を作ることにしたと言われて、教頭先生とその先生と僕とでコー
ト作り。
昔のこういうローラー引っ張るやつ、コンクリでできたの、あれを毎日グランドにか
けて、それでようやくコートができた。
よし、これでもう完成だから(部員を)募集しようって募集したら50人来た。
中尾:え?その時ブームとかあったんですか?
佐藤:皆知らないし見たことないだろうし。あとはもしかしたら美智子様(上皇后)がやっていて皆の頭にあったのかもしれない。
中尾:一面じゃ全然足りないですね。
佐藤:そう、それでスタートして、中学はダブルしかないから私のクラスの学級委員とペア
を組んでて。
で、当然部長をやってくれという話になったけど、テニスやりたいだけだから、ペア
を組んでいる級長にお任せしてくださいと。
それで県で準優勝まで行って。
私のサーブが独特で、硬式の打ち方をすると相手が取れない。
運動神経は良かったね。
あとは、頭が悪すぎで「塾行けっ」って言って寺子屋だよ、近所の寺に通わされて。
中尾:寺子屋ってお金はかかるんですか?
佐藤:かかるよ。お寺を借りて、そこに先生が来てやってたの。で、ある日雨の日に帰りに
女の子が2人俺のこと迎えに来てるの。
したら邪魔が入って、お袋が迎えに来て(笑)
そういう思いでもある。
中尾:寺子屋って塾じゃないですか?塾に通う必要性って何だったんですか?
佐藤:(受験の為と言う意味合いもあまり無く)ただ勉強を教えてくれる。
だから何故行かせてもらえたか分からない。
行ってる方が少ない。そろばんも習ってた。
中尾:そのあたりは親御さんも熱心というか、なんとか勉強はさせたいなというふうな思い
だったんでしょうか?
佐藤:男一人だったから。姉さん2人、中学出て働いてるから、全部俺に注いでくれたか
ら、だからありがたいと思ってるわけで。
中尾:当時の高校の進学のシステムってどうだったんですか?
私の感覚だと、日頃の内申点があって、学校の評価があって1回試験があって、それ
の合計で合否が決まるっていうイメージなんですけど、当時ってどうだったんです
か?
佐藤:同じじゃない?ただ、当時は学区は無かった。
で、自分は同じ中学のトップ3人と同じ学校を受験することにしたんだけど。
中尾:じゃあ相当優秀だったんですね。
佐藤:優秀じゃないんだよ。オッケーもらえたんで受けに行って見事見事落ちたの。
受かったのは1位の子だけ。それで県立落っこちたから、もう高校行かない、働くん
だ、もう諦めだよね、
そしたら親父が私立でも良いから行けって、それで先生に相談して東京(の高校)行
っちゃった。
中尾:なおのこと、なぜ難関校を受けたんですか?
佐藤:行きたかったからだよ。一緒に受けた子も仲良かったし。
そんな中学校時代だよ。それで高校行って、ビックリしたのが、高校入って直ぐに上
級生4人に呼び出し受けて、怖いと思いながら行ったら、テニスで良い成績だったの
を知っていて、テニス部に入れと。
中尾:(県で準優勝だから)それは有名になりますよね。
佐藤:その時にね、私も断ったんですよね。それは理由があって、高校に親に入れてもらえ
たけど、(県立に落ちた時点で)高校にも来れない、そう自分でも思っていたと。
それを両親が入れてくれたから自分で稼いで学校を出ないといけない、そう自分で思
ってる。だからクラブをやりたい気持ちはやまやまで100%の気持ちがある、でもや
っちゃいけないんだって自分で思ってる、と。
だからずっとバイト。だから夏休みなんて昼間やって夜やって。
で、ここからだよ長嶋茂雄さんが出てくるの。川崎球場が有ったから、半年間は野球
場でアルバイトしていた。売り子。
普通のバイトだと1日働いて700円くらいで1000円で良いバイトやってるね、って言
われるような時代。
売り子のバイトだと歩合制だからビールと弁当売って一晩大体7000円。
その代わり、骨盤のあたりの痣が消えたことが無い。瓶ビール担いで売ってるから。
高校の時にこのアルバイトだと3日やって2万円、で、高校卒業して働いて初任給
29,800円。そのくらい良いバイトだった。
こっちは学校の何から何まで自分で稼がないといけないから。
それでジャイアンツ側のベンチ裏とかよく行っていたから選手たちとも話をしたりサ
インをお願いしたりしていたんだけど、ある日行ってみたら長嶋さんがいなくて、聞
いてみたら、今医務室に居ると言うので行ってみたら点滴か何か受けていて、向こう
からも(自分のことが)ちょっと見えたみたいで「何?どうしたの?ちょっと来て」
って。
そしたら横になって点滴を受けているのに、ベッドの下から椅子を出してくれて、
「(椅子に)掛けて」って。「悪いけどさ、頼みが有るんだよ」って。何かと聞いて
みると「僕退屈なんだよね。話し相手になってくれないかな?」って。
それでずっと話してくれたの。オレの一番の宝物。長嶋さんずっと優しく話してくれ
たの。スゴイ良い人。まいっちゃうなと思うくらい良い人。
中尾:本当に一生の思い出ですね。
<サラリーマン時代>
佐藤:高校の時からアルバイトもそうだし仕事も色々やった。だから、私の持論は、出来な
い仕事は無い。
何でもやる気になれば出来る。私は何でもできると思ってる。そこで(以前経営して
いた)会社ができる。
(社名で何の仕事か分からないので)名刺を出すと「何の仕事ですか?」って言われ
るのが喜びだった。
(「○○食品」のように食品と分かるようにしていないので)「何でもできますか
ら言ってください」って言って。
中尾:高校時代からの色々なお仕事の経験からなんですね?
佐藤:そう、それで高校時代が終わって、金融機関に勤めたんだけど、大学は行けないから
サラリーマンになっても出世は見込めない、せいぜい課長どまり。
高卒で部長以上にはなれない。でも、(会社員時代に)名誉なこともあった。それ
は、「支店長になれるから、夜学でも良いから大学に行け」と。
真面目だったから初めの1年は1番に出社して掃除して、お茶出しして、仕事もボーナ
スの査定でA評価から外れたことが無い。
ノルマは会社の設定の倍を自分に課し、一度も下ったことが無い。
サラリーマンをやっていても出世が無いから起業するしかない、でもお金の流れも何
も分からない、じゃあ大学に行ったと思って4年間金融機関で働こう、それで金融機
関に勤めた。
それで5年やった頃に支店長と喧嘩する理由が出来てね。
商店街のアーケードを作るという大きな仕事で、他の銀行が支店長クラスが揃う中
で、商店街が若造の自分に任せるって言ってくれて、それで融資の準備とかしていた
のに、その時の支店長がダラダラして何も進まないから、「もういいや、他の銀行に
任せるから」って、他の銀行の支店長の所に行ってお願いして、「自分はもう辞める
から、お願いします」って。
だって、そこ(商店街のお店)全部お客さんになるような大きな仕事なのに、そんな
(重要性も分からない支店長のせいで)仕事逃した。それで辞めちゃった。
中尾:それだけの案件だったということですよね。
佐藤:そこで色々勉強できて、色々と仕事を探してて、その後色々困ったんだよ、自分で
も。その時取引先だったカメラ屋さんがあって、1軒店を出すから、任せるからやっ
てくれないかってやってたら、そこにお客さんでいたのが奥さん。用もないのに5時
間、6時間座っていたからね(笑)
まあ、カメラの仕事っていうのはね、今見れば分かると思うけど。やっぱり全然ダメ
よ、売上も全然上がんないし。
そこを辞めて、仕事を探していて、新聞を見たら食品会社があったわけよ。
でも営業も車が無いもんだから、真夏でも歩いて営業してた。電車代も自費だったか
ら少し離れたところから30分、40分かけて営業所まで歩いて通って。
そしたら、ある時、たまたま先輩が通りかかって、事情を話したら、毎日ここに迎え
に来てやるから、それで今日はどこを周るか言ってくれたら、そこの地区まで乗せて
ってやるからって。それで歩いて営業してたの。
そしたら、そこの所長が認めてくれて、電話で入る注文を全部自分の歩合に付けてく
れてたの。すっごい助かった。
で、半年一生懸命頑張ってたら、営業所を纏めているセンターがあって、そこのセン
ター長になったの。
中尾:飛び級ですね?!
佐藤:そこでもう改革よ。昼間事務員を見てても全然仕事しない。残業手当を稼ぐ(ことが
目的な)だけ。だから、仕事終わんなくても良いから、定時で上がってって。
だから、今の「働き方改革」?そん時やっちゃったの。
残った仕事は俺やるからいいって。だって時間内にできんだもん。
そしたら本社から電話かかってきたの。「最近残業手当の請求が無いんだけど、どう
したの?」って言われて。
「いや、仕事見ていたら、仕事してないし、皆帰ってから仕事やってんだから、定時
で出来ることに残業手当払う必要性無いし、それに払う経費はありません」って。
未だに言ってるんだけど、そこに勤めていれば楽で、お金も良くて、今の生活も変わ
ったでしょうね(笑)
中尾:何でそこ離れたんですか?
佐藤:自分でやりたかったの。そして仲間にも誘われたの。
中尾:では、最初は共同経営みたいな感じで?
佐藤:一人が元警察官で、一人が元映画監督で。だから会社のことは分からないから色々教
えたりもして。そうしたら、そのうちの1人が2、3年で亡くなっちゃって。その時に
僕はもうやめちゃって、自分の会社を作っちゃった。
<独立起業>
佐藤:(今の家の)この先のアパートに6畳・4畳半のアパートに住んで(妻と)2人で会社
をやったわけで、そこで賄いさんを募集して、それで各現場に入れてやったわけよ。
嬉しかったことは、2人だけの仕事で売上1億(円)行った時。
中尾:何年目ですか?
佐藤:3,4年でしょ。
中尾:その時は食品の卸ですか?
佐藤:委託だけ。建設現場があるじゃない?そこに食堂があるじゃない?
そこに自社の賄い(スタッフ)を入れて、管理を全て任せる。
お母さん(奥様)が電話番で俺が外回り。その時大変だったのは寝ずに働いたこと。
埼玉から富津まで行かなきゃいけないこともある。その時、木更津から川崎まで船で
1時間10分。それが寝られる貴重な時間だ。
中尾:最大何拠点ですか?
佐藤:どんくらいだろう?20はある。
中尾:その時の賄いさんは正規雇用ですか?それともパートですか?
佐藤:正社員。
これでもまだ楽な方の仕事だよ。
中尾:そうですか…
わかりました。そうすると、やはりまだまだお話の続きがあるかと思いますが、時間
になりましたので、今回はここまでとさせていただきます。
ということで、今後も定期的に会いたい人に会いに行き、話を聞いてみたいと思います。
それでは第11回お楽しみに。
ではまた。
(了)
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